第六章:記憶の風が吹く
薄曇りの空の下、遺跡の入口から続く草原を歩いていたジュリたちは、地図にない深い森へと足を踏み入れていた。
「こんな場所、あったかな?」
カイルが周囲を見渡しながら呟く。地図に示された道は確かにこの方角だったはずだが、進めば進むほど、空気がねっとりとまとわりついてくる。
「気をつけて。ここ、普通の森じゃない」
リシェルが一歩前に出て、指先を空に向けると、風が微かに唸りを上げて流れ出す。その風の中に、聞き覚えのある声が紛れ込んだ。
お姉ちゃん、どこに行ったの?
ジュリははっとして振り向く。そこには誰もいない。ただ、耳に届いたのは、幼い頃の兄の声だった。紛れもなく、自分に向けられた呼びかけ。
「今の……」
「聞こえたんだね、ジュリ」
リシェルは静かに頷く。
「この森は、“心の記憶”を霧として映す。迷いがある者ほど、深く囚われるの」
足元に伸びる苔むした道。それはまるで、記憶そのものを辿るかのように、まっすぐではなく、幾重にも曲がりくねっていた。
「……進もう。立ち止まったら、本当に戻れなくなりそう」
ジュリは胸元をぎゅっと握りしめ、先頭に立つ。兄の声は幻だったのか、それとも。
進むごとに、周囲の木々がわずかに揺れ、ざわめきが人の囁きに変わっていく。「間に合わなかった」「助けられなかった」「選んだのは君だ」。ひとつひとつが、ジュリの心に巣くっていた不安をあらわにするようだった。
だがその時、不意に手を引かれた。
「ジュリ!」
カイルが、手をしっかりと握っていた。彼の目は真っ直ぐで、迷いの色はない。
「戻ろう。幻に飲まれるな」
ジュリは大きく息を吸い込む。仲間の存在が、心の揺らぎを少しだけ、押し戻してくれる気がした。
「うん……ありがとう。行こう。ここを抜けないと」
その背中に、再び幼い声が重なった。
“また会えるよ、お姉ちゃん”
その声が、森の中に小さな道を開いた。
森の奥へ進むほど、霧は濃く、空気は重くなる。
視界はぼんやりと歪み、木々の間に現れる影が、まるで生きているかのようにうごめいていた。
「この辺り……さっき通ったような……」
リシェルが呟く。道が閉じていくような錯覚に、ジュリは無意識に自分の胸元を押さえていた。
「お兄ちゃん……」
木々の間に一瞬、あの姿が見えた気がした。
高い背、笑顔。あの日、家を出て行ったときの背中。追いかけたかったのに、届かなかった記憶。
「待って!」
ジュリは思わず走り出した。リシェルとカイルの制止の声が、霧に飲まれていく。
なぜ、置いていったの?
声が、霧の中から響いた。
振り返ると、そこには幼い頃の自分自身がいた。
泣きじゃくる、小さな少女。兄に手を引かれていた自分。その手が離れ、彼は消えていく。
「私……置いてかれたくなかったのに……」
膝をついたジュリのもとに、カイルが駆け寄る。
彼は何も言わず、ただ静かに肩に手を置いた。そのぬくもりに、霧がほんの少し、薄れる。
「ジュリ。君はもう、独りじゃない」
リシェルが言う。「君を信じてる人間が、ここにいる。現実の手を、離さないで」
ジュリは深く息を吸い込む。
霧の中、目の前にもう一度、兄の幻が現れる。優しい微笑を浮かべ、まるで何かを言いたげに。
「……行くよ、お兄ちゃん。私は、ちゃんと、自分で前に進むから」
その言葉に呼応するように、森に風が吹いた。
記憶の霧が揺れ、崩れ、道が一本、前方に伸びていく。
森を抜けた先は、広大な草原だった。
空の色が少しだけ明るく、柔らかな風が頬を撫でる。
「ようやく抜けた」
カイルが肩をすくめ、空を仰ぐ。
その時
「……おい、こんなところに人間が?」
声がした。
振り返ると、小高い丘の上に、一人の少女が立っていた。年はジュリと同じくらいだろうか。銀色の髪が風に揺れ、琥珀色の瞳が、興味深げにジュリたちを見つめていた。
「あなたたち、裂け目のことを知ってる?」
その一言で、空気が変わった。
「どうしてそれを……」とジュリが言いかけると、少女はにやりと笑った。
「話すなら、ついてきて。案内してあげる。“境界の塔”まで」
境界の塔そこは、兄が最後に残した記録の中にも、名前だけ記されていた場所。
裂け目、異界、失われた魔術……すべてが繋がっていく場所かもしれない。
ジュリは頷いた。「行こう。きっと、何かがわかる」
風が背を押すように吹いた。
迷いを抜けた少女の足取りは、ほんの少しだけ、軽かった。