第十章:風を読む者
東の渓谷へ向かう旅路は、これまでにない厳しさだった。
木々は低くなり、空は狭まり、風は切るように冷たい。進むごとに景色は荒れ、土は乾き、生命の気配が薄れていく。
「ここ、本当に人が住んでるのか?」
カイルが険しい表情で岩壁を見上げる。
「住んでるというより、“風と共にいる”のよ」
セラがそう言った直後、強い突風が一行を包んだ。耳元で、言葉のような囁きが通り過ぎる。
「今の!」
「呼ばれたみたいね」
ジュリが前を見据えた瞬間、霧の向こうから、影のような人影がゆっくりと現れた。
現れたのは、背をすぼめた老人だった。長い白髪に、風でなびく羽織。片目には布が巻かれていた。
「風が、お前たちを導いたか」
しゃがれた声が、空気を割った。
「あなたが、“風読みの民”の生き残り……?」
セラが一歩踏み出す。
老人は頷いた。「そうだ。かつては“風渡り”と呼ばれた者よ。だがもう、風は私の言葉を聞かない。ただ、最後の予言だけは残っている」
「予言?」
ジュリが問うと、老人は彼女の顔をじっと見つめた。
「……双なる魂が裂け目を越え、封じられし地を揺るがす」
「その先に在りし者、過去と未来を裂く者なり」
沈黙が落ちた。
「それって、私たちのこと?」
「おそらくな」
老人はゆっくりと歩き出し、渓谷の奥へと案内する。「話すべきことがある。“ルザリア”を目指すなら、覚悟を定めよ」
老人が案内したのは、風食岩の影に建てられた、小さな祠だった。
その奥には、風読みの民にだけ伝わる“空白の地図”が眠っていた。
「見よ。これが“ルザリア”に通じる唯一の道」
老人は地図を広げる。古い羊皮紙に刻まれた線のいくつかが、微かに風の魔力で浮かび上がった。
「風の流れと大地の記憶が重なるとき、封じられた路が開く」
「この印……」
ジュリが指差す。「兄が使っていた魔法陣に似てる」
「ほう、ならば、お前の兄もこの道を選んだのだな」
ジュリは拳を握る。「この道の先に、兄がいる。なら、私もそこへ行く」
老人は静かに頷く。「だが、“ルザリア”はただの遺跡ではない。“境界の中心”だ。そこでは、真実と虚構が交わる。お前はそれを受け止める覚悟があるか?」
「あります」
ジュリの声は揺れなかった。「何があっても、自分で見ると決めたから」
「ならば、風の印を授けよう」
老人は魔術的な文様を刻んだ石片を渡す。「これを道中の石碑に掲げれば、風が道を照らすだろう」
別れ際、老人は静かに言った。
「……お前の兄は、ただ世界を壊そうとしていたのではない。彼は、“誰かに壊される前に壊そう”としていた。私は、そんな風を感じた」
「誰かに……?」
「この世界の“芯”に近づくと、見えぬ力が揺らぎをもたらす。注意せよ」
そう告げて、風渡りの姿は霧の中へと消えた。
その夜、キャンプの火のそばで、ジュリは地図を見つめていた。
リシェルがそっと横に座る。
「震えてる?」
「ううん。震えてるのはたぶん、風のせい」
「それならいいけど」
リシェルは小さく笑う。
「兄が選んだ道に、私も進んでるんだなって。それが、少し怖くて、でもうれしくて」
「あなたは、ちゃんと“自分の足”でここまで来てるよ」
リシェルの言葉に、ジュリはそっと微笑んだ。