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ダニエルは苛立っていた。
もうずっと苛立っていた。
あの王宮の夜会、あの時までは順調に全てが上手くいっていた。そうしてあのみすぼらしい女に婚約破棄をしてやった。ダニエルは美しく上品なフレデリーカと婚約を結ぶことが出来、フレデリーカは聖女という名誉も手に入れた。高笑いが止まらなかった。
それなのにそれからは何もかも上手くいかない。
外遊から帰ってきた父上には物凄く叱られた。その後父上は第二王子オーランドにあのみすぼらしい女と婚約を結ぶよう言ったそうだがオーランドが断ったのでダニエルは首の皮一枚でまだ王太子になる可能性を残している。
ボイデルは言っていた。聖女などただお祈りするふりをしていればいいのだと。
あのみすぼらしい女はただ毎日祈りの間で祈っているだけ。災害が起こった地域でもただ祈っただけ。まばゆい光が辺りを包んだ訳でも目に見えるような奇跡が起こったわけでもない。ただその後事態は驚くほど好転した。
だからあの女はフレデリーカの従者の一人としてフレデリーカの後ろで祈らせておけばいいのだと。
それならフレデリーカでも十分聖女が務まるだろう。あのみすぼらしい女が夜会で言った聖女の待遇には驚いたがそんなことはフレデリーカにはさせない。掃除など下々の者がやればいいし我々は高貴な血が流れているのだ、粗食になど耐えられるはずがない。適当にお祈りをするふりをさせ、偶にボイデルに聖女の奇跡を演出させフレデリーカが真の聖女だということを民衆や貴族どもに知らしめようとした。
最初は上手くいったように見えたが思ったほどの反応は得られなかった。
やはりあのみすぼらしい女をフレデリーカの後ろで祈らせる必要があるのだろう。あの女をみすみす逃してしまったことだけが失敗だった。あいつらはクルーズ辺境伯領に逃げ込んだ。
辺境伯の領地は隣国にも魔の森にも接している。今は隣国と和平協定が結ばれているが、過去何度も侵略を受けそれを撃退してきたのが代々のクルーズ辺境伯であり、魔獣も王都の騎士団に頼ることなく自領の騎士たちで全て撃退してしまう。
国王でさえ一目置く相手、それが辺境伯なのである。
もちろん夜会が終わった時、あのみすぼらしい女がいないことに気が付いてすぐに後を追わせた。それなのに捕えることが出来ず、その後何度も追手を差し向けているが一向に成果は上がらない。差し向けた者は辺境伯領に入ることもせず戻ってくる。怠慢にもほどがある。全員厳しい罰を与えてやったがそろそろ人材不足になりそうだった。
フレデリーカの聖女としての名声もいまいち上がらず、父上に婚約も正式には認めてもらえず、あの女も捕まえられない。そんな時にプライサー伯爵領で魔獣の被害が出てフレデリーカと共に行かされた。あんなところ二度とごめんだ。豪華なベッドも食事も無く汚い怪我人どもが喚き散らしている。騎士団が魔獣と戦っていたがそれを逃れた魔獣が襲い掛かってきた。近衛が対処したがフレデリーカが怪我を負った。慌てて王都に帰れば父上に叱られ謹慎させられた。
最近では王宮の使用人や側近までが白い目でダニエルを見る。小言が煩いアーノルドは早々に首にしてやったが残ったのは使えない者ばかりだった。
イライラする毎日を送っていたダニエルに一人の側近が耳寄りな話を持ってきた。
「偽聖女がこともあろうに各地でお祈りをしているらしいです」
フレデリーカを差し置いて勝手にお祈りをしていることに腹が立ったが、色々な場所に行っているのなら辺境伯領にいるよりも捕まえやすいだろう。数少なくなった動かせる者を差し向けたが悉く返り討ちに遭った。
「もういい!私が直接行く!」
あの女が次にどこに行くかの情報を掴んで自分が直接行くことにした。第一王子の視察という名目を付ければ騎士団を動かせる。
あの夜会から一年半、季節は二度目の夏を迎えようとしていた。
クラフト王国騎士団一個師団を率いてダニエルはアミーリアを捕獲すべく出発した。
ダニエルが到着したのは水害に遭ったマデルート侯爵領だ。マデルート侯爵領は大河ミスゾン川を擁しており大地は肥沃な代わりに数年に一度水害が起こる。侯爵も水害対策に河川の護岸工事をしており国にも費用の申請をしているが許可は下りず対策は未だ行き届いていない状況だった。
堤防が決壊し多くの家が水に浸かり畑が泥地と化した場所でアミーリアは祈っていた。
近づこうとすると一行は辺境伯領の騎士たちに阻まれた。
先頭にいるのは辺境伯の嫡男のバートランド。彼らはどんな理由をつけても居丈高に脅しても一向に引かなかった。
ダニエルは我慢がならず馬車から降りた。外に出ると靴がずぶずぶと泥にめり込む。
こんな汚らしい場所は一刻も早く去りたかったが我慢をして遠くに見えるアミーリア一行に向かって歩き出した。
慌ててクラフト王国騎士団がそれに随行しようとするが辺境伯領の騎士たちがそれを阻む。たちまち戦闘が開始された。
力の差は歴然で辺境伯の騎士たちは余裕の笑みで王国の騎士たちを大きな怪我をさせることなく無力化していく。
しかしさすがに王子に対しては暴力を振るえないらしくダニエルはなんとか周囲の戦闘を回避しながらアミーリアのところへ走った。
周囲が跳ね上げる泥でダニエルは頭の先からつま先まで泥まみれだ。ご自慢の美しい顔にもべったりと泥がついている。
「アミーリア!!この偽聖女め!!大人しく私と王都に帰るのだ!!」
ダニエルが声を張り上げるとアミーリアが振り向いた。
「……美しい」
そこにいたのは粗末な服を着て鳥ガラのように痩せたみすぼらしい女ではなかった。
色褪せた茶色いごわごわした髪はやさしいミルクティーのような色合いに変わりふわふわと小さな顔を彩っていた。きゃしゃな体はそれでも程よく肉が付き健康そうな少し日焼けした肌はシミ一つなくすべらかな頬が桜色に色づいている。フレデリーカの美貌と違い親しみやすい少し幼くも見えるその顔は十分に美しかった。
足を止めアミーリアの美しさに打たれたダニエルが茫然としていると、アミーリアは首を傾げた。
「どなた?」
泥にまみれ顔が良く見えなかったのだが傍らのルーファスを見上げるとルーファスが笑いを堪えて教えてくれた。
「第一王子のダニエル殿下だよ」
「ああ!あの金ぴかの!ダニエル殿下、何の御用でしょうか?」
ポンと手を打ってアミーリアは問いかける。ルーファスは口元は笑みを湛えているが目は油断なくダニエルを見据えていた。
「アミーリア!私と一緒に王都に帰るのだ!」
「嫌です」
間髪を容れずの拒否にダニエルは呆気にとられた。
「何故だ?ああ、お前の偽聖女との汚名はそそいでやってもいい。真の聖女と認めてやろう。もう一度婚約してやってもいいぞ。満足だろう?」
ダニエルはあっさり方針転換をした。こんなに美しければ我が妃に迎えてやってもいいだろう。そうだ、そうすれば全てが上手くいく。私は予定通り聖女アミーリアと結婚する。父上は喜び王太子の座も私のものだ。
「え!なんということを仰るのですか!私は聖女じゃありません!そう仰ったのは殿下です!私はただの平民です。殿下の婚約者なんて無理です」
またもアミーリアに拒絶されダニエルは切れた。
「えーい!ごちゃごちゃ煩い!お前は私と来ればいいんだ!今度はちゃんと婚約者として扱ってやる!」
強引に手を伸ばすとその前にずいと立ちはだかったのはルーファスだ。
「勝手なことは止めてもらおう。彼女はクルーズ辺境伯領の領民だ。連れて行くなら辺境伯の許可を取ってもらわなくてはな」
「何を……あ!お前はアミーリアについていた聖騎士だな。聖騎士風情が私の邪魔をするな!」
「何年前の話だ?聖騎士なんてとっくの昔に辞めているぞ。俺の名前はルーファス・クルーズ。辺境伯の次男だ」
何だと?思いもかけない厄介な相手にダニエルは歯噛みするが、辺境伯の息子だといえ身分はこちらの方が上、強引に行くことにした。
「辺境伯の息子風情が私に逆らうというのか!父上に知らせて爵位など簡単に剥奪してくれる!そこをどけ!」
ルーファスに向かって怒鳴った時ダニエルは後ろからトントンと肩を叩かれた。
「何だ!!」
振り向くとダニエルより頭一つ以上大きな厳つい男がダニエルを見下ろしている。
「なななな」
思わずビビったダニエルにその大男はニカッと笑って言った。
「今辺境伯の爵位を剥奪するとか聞こえたんだけどなあ、それはどんな罪状でなんだ?まさか平民を強引に連れ去ろうとしてそれを拒否したからとか言わねえよな?」
「ま、どっちにしろ辺境伯に書面で通達してくださいよ。———辺境伯領に使者が入れたらだけど」
後ろの方は小声でルーファスはダニエルにそう言うとバートランドやアミーリアを促した。
「兄上、アミーリア、帰ろう」
一斉に踵を返すとダニエルは尚も追いすがる。
「待てっ!おい、お前たちこの不埒な者どもを捕えて―――」
ダニエルはバートランドの身体に遮られて見えなかった後方を振り返り騎士たちに声を掛けようとしたが―――
気絶して積み上げられたクラフト王国騎士団の騎士たちの山。
ダニエルは騎士たちを見ては去って行くアミーリアを振り返りまた騎士たちを見て……バートランドに「あの山のてっぺんに積み上げてやろうか?」と笑われがっくりと膝を突いた。
アミーリア達がダニエル一行から離れるとマデルート侯爵たちが近づいて来た。
「すみません、我が領で偽聖女様を危険な目に遭わせてしまった」
第一王子と騎士団を危険分子扱いするマデルート侯爵に苦笑しながらルーファスは言った。
「いえ、大丈夫ですよ。それより早く復興できるといいですね。クルーズ辺境伯家でもお力添え出来ることがあったら協力します」
「偶には身体を動かさないとなまってしまいますからね。ちょうどいい運動でしたよ」
バートランドが腕をグルグル回しながら言うのでマデルート侯爵は笑ってしまった。
「それより侯爵家の方に王家からお咎めが無いといいですが」
「ご心配くださりありがとうございます。なあに、伊達に侯爵という地位は持っておりません。王家もそんなに簡単に手は出せません。元々何にもしてくれない王家でしたが愛想が尽きましたな」
ルーファスが心配そうに言うとマデルート侯爵はため息をついたのだった。
アミーリアが祈った大地からは急速に水が引き始めている。大地が元の姿を取り戻し流され水に浸かった作物が信じられない生命力で再び根付くのももうすぐだろう。