第四話。『過去に溺れて、潰れてしまえ』
上昇していくエレベーターの中で、悠真は一人声を押し殺して泣いていた。
「なんで、なんでよぉ……」
この三日間、悠真の隣には鍵穴がいた。
それこそ、ずっと。
誰もいない、何もわからず、何も知れない。
それがどれだけ恐ろしいことか、悠真は既に知っていた。
最初は半信半疑だったのに、無意識に鍵穴の存在が救いになっていたのだ。
すると、小さな音が鳴る。
エレベーターが上昇を終えた。
虚無のようで、虚無とは言えない空間。
それが、四階だった。
どこからどこまで続いているか、見当もつかないほどの黒い部屋。
部屋の中央には、とある花が咲いていた。
本来地面に咲くはずのない花が、咲いていた。
――……アルストロメリアの花が、咲いていた。
そんな空間には、悠真ただ一人。
「……」
しかし、悠真本人は――。
恐怖より、興味の方が勝っていた。
あの花に、魅了されたのだろうか。
気になって気になってしょうがなかった。
気づけば、四つん這いになって近づいていた。
その花に手を伸ばして、そっと撫でてみる。
風も吹かぬこの場所で、不思議とゆらめいていた。
綺麗だと思って。美しいと思って。
――……ぷつん、と。
「あ、え……?」
欲望に負けて、その花を摘んだ時。
世界がパズルのように崩れていく。
それが要であったように。
ぱらぱらと、あっけなく……。
悠真は何もわからず、ただ落ちていった。
△ ▼ △ ▼
気がつけば、そこは教室。
見たことがある。
悠真の通っていた、小学校の教室。
悠真の精神を壊した、全ての場所。
『頭を壊すような記憶に、溺れてしまえ』
「――!?」
痛い、痛い、痛い。
頭が割れるように痛くなる。
それは頭から体へと繋いでいって、痛みが伝染していく。
『その痛みは、お前が忘れた全て』
「痛い、やめて、なんでこんなこと――!」
思い出した。
思い出したくなかった。
毎朝学校に来てみれば、悠真の机には数々の暴言が書かれていて。
周りからは小さな笑い声が聞こえてきた。
教師はそれを無視して。
毎日毎日、机に書かれた暴言を雑巾で拭いていた。
話しかければ無視をされ、少しでも何か行動すればそれに陰口を言われる。
授業中には良く消しゴムを投げつけられたり。
放課後には人目のないところに呼び出されて、ストレスのはけ口にされる。
例えば、殴られたり蹴られたり。
ひどい時はカッターで切られそうになったりもした。
みんなが敵で、何も信じられなくて。
学校側はそれを隠蔽し、もうどこにも居場所なんてなかった。
その先のことを想像して怖くなり、親にも言えぬまま。
この傷は全て、そこから生まれたもの。
「痛い、痛い、痛い! 全部僕の所為なんだ、僕の所為でみんなが――」
『お前が逃げなければ、こうはならなかった。この苦しみも、感じる必要はなかったんだ』
伝染される痛み、トラウマの笑い声。
ずっと痛くて、ずっと怖い。
これなら、死んだ方がずっとマシだ。
吐き出したのは、くろい液体。
それが何かわからず、悠真はただ怯えるだけ。
それを吐くと不思議と意識がゆらめいて、恐怖心が煽られる。
違う、これは……吐かないで、行かないで。
僕が、僕でなくなるような気がするんだ。
記憶が伝わってくる。
なんでこの世界に来たのか、何故ここにいたのか。
全ての記憶が、痛みと共に流れてくる。
自分の部屋だというのに、誰かがいる。
腕に切られた線状の赤から、誰かがのぞいてる。目が、めがいる。
誰かがいる。誰かが嗤っている。
目玉が、誰かが、やめろ、見るな。
見ないで、お願いだから見ないで。
僕をみないで、僕をころさないで、ぼくをみないで、ぼくをころして。
これが、まぎれもない自分の記憶なのだと。
「いらな、いらない! 記憶なんてっ、も――」
あの日、雨の日の夜。
母の目を盗んで、一人台所へと。
「いしょ」と書かれた紙を置いて。
やっと終わる。
ナイフを腕に持っていく。いつものようにすればいいだけだ。
この苦しみごと、持っていこう。
全て僕が悪いから、全て僕が原因だから。
『この苦しみを断つなら、原因を断った方が効率的だろう?』
「違う、ちがうっ! 僕はそんなことしてなくて、ちが……ごめ、ごめんなさい……許して、許してくださ――」
目の前には、紅い液体。
それがなんなのか、悠真は分かっていた。
ただ苦しみながら、悠真は枯れた声で許しを乞うていた。
「……痛い、なんで…………」
「――――……たすけて……」
△ ▼ △ ▼
その言葉を言えた時。
何事もなかったかのように黒い空間に戻った。
目の前には、あの花がある。
「あ、え? 何が――」
辺りを見回しても、何も変わった様子はない。
さっきのは幻覚だろうか、にしては質の悪い。
でも。
「頭から、離れないなぁ……」
あの時に見えた自分の姿。
思い出せなかった記憶が、呼び覚まされたのだろう。
あの時の記憶が、頭にこびりついてとれなかった。
今回は、一部どころではない。
全て見えてしまったのだ。精神的にも、自分がとてつもなく追い詰められていたことが分かるほどに。
「は、は……」
何故自分がこんなにも落ち着いていられるのか、わからなかった。
頭が混乱して、今でも痛みが忘れられないのに。
あの記憶を見て、思ってしまった。
あの苦しみを繰り返してまで、あの世界に帰る必要はあるのだろうか。
こんな風に思ってしまう自分が、大嫌いだ。
目の前には、古びた鍵が落ちていた。
これできっと、あの扉を開けられるのだろう。
悠真は震える足でなんとか立ち上がり、鍵を開ける。
鍵を持ち、手首をひねった時……鍵はあっけなく折れ、扉が開いた。
もう、どうでもいい。
その扉の先は、エレベーター。
悠真は何かに取り憑かれたように、フラフラする足取りでエレベーターの中に入った。
『最低で最高な君に、賞賛を送ろう』