ただじゃない
課内で入れ替わりにとるお昼休みの順がまわってきた侑果が、ぽかぽか雑踏する表へ下りて浮き浮き歩いていると、道路をはさんだ向かいのちょっと先に、好きなパン屋がみえてくる。
お気に入りのこの店は、パンの種類はとりわけ多いとは言えないものの、その選ばれし一つ一つのパンがどれもこれも揃いも揃って、いちいち美味しく逸品なのにくわえて、売り場のとなりに食事スペースをしつらえてあるところから、店内で一休みしつつ楽しみたい時などにちょくちょく利用しているのだが、歩道を今少し先まで行って現れた信号が青に変わるのを待っていると、不意に、通りに面した硝子窓に向いて並んで座っている二人連れの男のほうに見覚えがあるのを認めて、嫌悪がたちどころに、侑果の顔から背中を伝って脚をすばやく足裏へと抜けていった。
折から青に変わった信号を前に呆然と立ち尽くす侑果の細い肩を、それとは知らない通行人が寸前でよけ、またはぶつかり押してゆく。かかとを蹴られてよろめくうち、腰を触られたような気がして、見返り、すぐにまた顔を戻しても似たような背中が過ぎてゆくばかり。侑果は溜息を一つ、頭を振って脇に寄り、目を今一度ひとところへ凝らすと、幾分ぼんやりしてはいるものの、それでも見間違いようがない。彰斗。そのとなりをひたと占めて、頬杖片手に彼を覗き込むようにして今笑った女性については、ここからちゃんとは見定められないけれど、知らない人。
隣り合った飲み物の一つを彼が手にとり、斜めに折れ曲がったストローの先をすする。戻すと、すぐに女を見つめて相槌を打ちつつ何事か話し込む。笑った。やはり相手は知らないものの、これだけ見ればもうたくさん。
侑果はうつむくと共に足の向きを変えて歩きだした。たちまち、今からでも遅くはない、信号を渡って、通行人に紛れてさらに近くから現場を見極めるべきだと悟ったものの、考えるそばから勇気が挫けてしまう。そのままふらふら進む足の止まらぬうち目に留まったファストフード店に吸い寄せられるままレジへ並び、すぐにきめてしまって番号札をもらい席で待っているあいだも、侑果の胸を締めつけ支配するのは先刻からの衝撃ばかり。
会社こそ違うものの、出勤する駅が一緒の彼とは同僚がひらいてくれた合コンで出会ったのだが、侑果はひさしぶりで同世代の男と出会えた嬉しさも手伝って、自分から盛んに話題をひろげるうちたちまち意気投合し、今では仕事終わりに度々食事を共にする仲になっていた。彼を好きかどうかは自分ながらよく分からず、というよりそこには無理に目を向けず足を踏み込まないまま答えを出さずにいたふしさえあるものの、それでも憎からず思っていたのは確かだった。
発展しない関係性。そのことに侑果は近頃、どこか柔らかな愉楽さえ感じはじめていた。本気の恋愛はそのたびごとに身を削られるものである。高校時代に特有な、憧ればかりが先に立つ幼い恋愛ごっこめいたものをのぞけば、とはいえそれによって女になったものの、侑果がちゃんと恋愛をしたのは三度、うち二回は自分のほうから相手へ終わりを告げていた。好きだった相手から気持ちが離れること、あるいはそばを離れたいと思うこと。幻滅することのつらさ、いとわしさ。そして悲しさ寂しさ。
折々の経験で侑果はいやというほどそれを知っていて、皮膚からうちへと浸透しきった身の上にはその恐れがないこと、少なくともまだその心配のないことは、たちまち心をなごませた。今まで知らずにいた穏やかな彩りを彰斗との関係に見いだして、自分に余裕さえ感じるのが取り分け嬉しかった。それでも一緒に食事をしていると、時折、ひりっと胸が引き裂かれて不安になり、眩暈がして、気づくと目前のまろやかな光が消えている。と、彼が光の翼を生やした四足獣になり、侑果を背に乗せないまま置き去りにして駆け出したかと思うと、白くひらめく翼をゆっくり羽ばたかせて、侑果に見向きもせず暗闇を丘の向こうへと悠然と飛び去ってゆく。そこで侑果は呆然と立ちすくんだまま何も出来ない。
「お待たせしました」
物思いをやぶる突然の声に、肩をびくつかせて驚くまもなく、注文した品が復唱されて確認をうながされ、侑果は、
「はい。ありがとうございます」とうなずくと、トレイが置かれ、自分より三つ四つ若いだろう女の子は嘘には見えない愛らしい笑みをたたえて、ではごゆっくりどうぞ、の一声を残すと余韻を断ち切るようにまたせかせか去っていった。
腹が減っては戦が出来ぬとばかり、侑果はさっそくストローへうつむき、片手にハンバーガー、片手にポテトをつまむ手も軽やかになるうち、いつしか相手の女性への敵意は次第に薄れて晴れて、今ではもう女の共通の敵としての彰斗の姿のみ心を苛立たせる。
そっか。そうかそうだったか。ああやってどの子にもいい顔をしてるんだ、あの男は。いやだ。いつもそうなんだきっと。最ッ低。お姉さんに見えたけれどあまり変わらない気がする。あの人も被害者だよ、わたしといっしょ。かわいそうに。綺麗な人。なのに彰斗に騙されて、もてあそばれて。期待させるだけさせて。色んなものを吸い取られて、吸い取られて。ただじゃないんだよ? ただじゃないから。わたしはただじゃないのに。
読んでいただきありがとうございました。