白南風 2
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目を閉じて2秒で寝た彼を見ながら、不思議と微笑ましい気持ちになった。
授業を受けて、仲間と騒いで、終電を逃がす。
自分にはなかった大学時代で、少しうらやましかったのかもしれない。
もしくは、大学生の彼に対して在りし日の自分を思い出したのかもしれない。
自然と康平のことを思い出した。
思い出さないように、考えないように、必死に蓋をしてたのに。
ふと今、康平はどうしてるのかな、と思った。
携帯も家も変えてしまったから、康平からは僕に連絡をとることはできない。
今考えれば、ちょっとやりすぎたかなと思わなくもない。
でもあの時はもう本当に、二度と関わりたくないと思ったんだ。
実際、あの後会社がどうなっているのか知らないし、調べていない。
あの会社がうまくいっていても、そうでなくても喜べないから。
あっという間に熟睡に入った彼を見て、自分も寝よう、と目を閉じる。
隣の健やかな寝息につられて息をしながら目を閉じると、すうっと睡眠に誘導された。
こんな風に眠れたのはいつぶりか。
いつも眠ろうとすると、心にずっしりと重い影が落ちる。
あの時どうすればよかったのか、何というべきだったのか、そんなことをいつになっても考えそうになって、もうどうしようもないのだと慌てて心に蓋をして、目を閉じる。
そうして、いつまでも眠れない。
眠れないから、作業を始める。寝落ちするくらいまで何かして寝る。
睡眠リズムはめちゃめちゃで、食事のリズムもめちゃくちゃで、いつ倒れたっておかしくない生活だった。
でも今日は、目を閉じるだけですっと眠りに誘われて、翌朝まで目が覚めなかった。
水を使う音で目が覚めた。
一瞬、なんで水音が?って思ったけど、すぐに涼くんのことを思いだす。
隣にはもう彼の姿はなかった。
遮光性の低いカーテンはもう朝がきていることを思い知らせるほどの光を通している。
枕もとの時計をみると、もう午前中はのこりわずかだった。
寝すぎたかな、と起き上がってカーテンを開ける。
最近にしては珍しく、青空が広がっていた。梅雨の晴れ間というやつだろう。
雨が止むのはいいけれど、暑くなりそうだ。
窓を全開に開ける。まだ湿度を感じさせない風がほどよくありそうだ。
「横井さん、おはよ」
涼くんがキッチンから顔を覗かせた。
「おはよう。ずいぶん前から起きてた?」
「うん、まあね」
キッチンのテーブルの上には見覚えのないパンが乗っている。
「さっきパン買ってきたから。横井さんの分もあるからよかったら食べて」
「ありがとう、起こしてくれればよかったのに」
「いやーなんかよく寝てたからさ。でも起きてくれてよかった」
そう言う涼くんは、上着のシャツを羽織ればもういつでも出かけられる格好をしている。
「もう行くの?」
「うん、午後一で授業あるから。研究室寄らないといけないし、そろそろ出るよ」
昨日貸した毛布はきれいに畳まれていた。
テーブルに置いてあった腕時計をつけて、羽織のシャツに袖を通している。
「泊めてくれてありがとう。おかげですごくよく寝れた」
そう笑って、カバンを肩に掛け、玄関へ歩き出した。
「あ・・・」
思わず、声がでた。
こちらに背を向けた彼が、去っていく気がして。
なんでかわからないけど、彼が遠くへ行ってしまいそうな気がして。
玄関に座って靴ひもを結び始めた彼の背中を追いかけた。
気付くと、靴ひもを結び終わって立ち上がった彼の袖を掴んでいた。
「横井さん?」
その声と、ぽかんとした彼の顔にはっと我に帰った。
「どしたの?」
掴んでいた袖を離した。
「ごめん、なんでもない」
涼くんがいなくなってしまうわけないのに。
なんでさっきはそんなことを思ったんだろう。
袖を離したままの形で止まっていた手をゆっくりと下ろした。
その手をじっと見ていた彼が顔を上げる。
「また来てもいい?」
そうして、まるで人の心を読んだみたいに、そんなことを言う。
「昨日から借りてた服は洗濯してもってくるけど。それ以外にもきていい?」
律儀に洗濯して持ってきてくれるなら、そう遠くにはならないだろうと期待する。
それでも、大人は心のままを口にすることができない。
「服は、置いていってくれていいのに」
でも、そんな建前も彼はさらりとかわしていく。
「いいよ。また来るっていう俺の口実だから」
そんな素直に言われると、心にもないことをいうのもバカみたいに思えてくる。
「そんな口実なくたって、いつでも来ていいよ」
僕がそう言うと、彼は歯を見せてにこりと笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて。連絡する。一緒に飯にしよう」
同じ笑顔を返すなんていう芸当はできないけれど、はっきり、うん、と頷いた。
じゃあ、と手を振って、彼がドアを開けた。
強い日の光が、家の中に差し込んでくる。
すっかり夏のような空気が家の中に流れ込んできた。
眩しい光が家の中に差し込んできて、夏になりきらないさわやかな風が家の中に吹き込んでくる。
奥の部屋の窓を開け放っていたから、部屋に空気が通る。
その風が、長い雨に慣れ切った部屋の空気を一掃した。
涼くんを見送って、ドアを閉めようとしたけど、やめた。
家の中を吹き抜ける風をもう少し感じていたくて、ドアを少し開けたままにする。
暑いけれども、吹き込んでくる風が心地よい。
玄関と窓で空気を通したのなんて、ここに引っ越してきてから始めてかもしれない。
さわやかな風を感じながら、もうそろそろ潮時かな、と思った。
パソコンの電源を点けた。
メール画面を開いてみようかな、と思う。
康平と離れてから、ずっと確認していなかったメールアドレス。
家も携帯も連絡できなくしてしまったけれど、このアドレスだけは生きていた。
もし、連絡が入っているなら、これかな、と思う。
起動までの間に、コーヒーを作りつつ、涼くんが買ってきてくれたパンを開ける。
あ、そういえばお金払ってないなあ。
最初の食料の買い込みも、その後作ってくれたカレーも、何にもお金渡してないや。
もういっそ1万くらい預けて、気が向いた時にご飯作りに来てもらえたらいいのに。なんて思うけれど、さすがにそんな家政婦みたいなことしてくれなんて言う勇気はない。
パソコン前の椅子に座って、パンをかじる。おいしい。
メニュー画面から、メールを起動した。
さすがに1年近くも放っておくと未読のメールが大量にある。
ほとんどはダイレクトメールだけれども、一覧画面をスクロールすると、1か月ほど前の日付で康平からメールが入っていた。
開けてみると、一言だけ。
『これまで俺が送ったメールは読まずに捨ててくれ。俺が悪かった。もう一度俺に会ってくれるのなら、連絡がほしい』
そうして、メールアドレスと携帯電話の番号が書いてあった。
未読メール一覧をスクロールしていくと、彼と袂を分かった直後にたくさんのメールが来ていた。
それから1か月後にもちらほらと。
読まずに捨ててくれと書いてあるけど、読まないわけにはいかなかった。
それなりに覚悟がいる内容だろうな、と思いながらメールを開く。
最初にきていたメールは、僕が姿を消したことを詰る内容。
とにかく連絡を寄越せ、の一点張り。
あのときにこのメールを見なくてよかった。
もしメールが届くたびに見てしまっていたら、ノイローゼみたいになって、康平のことを二度と許せなかったかもしれない。
それから1か月後に届いていたメールの内容は、プログラムの変更が上手くいかないから助けてくれないか、という内容だった。
連絡をくれないか、と書いてあるものもあれば、メールに直接プログラムエラーがコピペされているものもあった。
それから、もうどうしようもないと助けを乞うものや、謝罪の言葉が連なっているもの、それから森を非難するもの。
八方ふさがりでどうしようもなくなって、苦しんだことが伝わってきた。
康平の苦しみが、十分にわかった。
それから数か月開けて、今回のメールが届いている。
彼に、会いに行こう。
短いメールだったけど、その内容から、すべてが終わったのであろう苦悩が読み取れた。
多分、僕たちが作った会社はもうないのだろう。
あってももう更新も止まっているような状態だろう。
検索をかけてみると、案の定な状態だった。
あのアプリは一応存在しているけれど、サービス停止状態だった。
一応使えるけれど、スマートフォンが新しくなるにつれてもう使えなくなる。
半年以上も手を離していたのに、失ってみると寂寥感が胸を満たした。
同時に、僕たちを縛るものはもう何もなくなったのかもしれないという安心感も感じるから不思議だった。
更新がなくなっても、サービスが停止しても、あのアプリ事態がなくなるわけではない。
あれはあれで、僕たちの作品として、記録として存在してればいいのだと思う。
大学を卒業してからはあのアプリの管理と更新と言う歯車を回し続けた数年だった。
僕はいち早くその歯車から手を離してしまったけれど、それが回り続けている限り、目を背けることはできても完全に違う方向を向くことはできなかった。
でも、もう回さなくてもよくなったのなら。
康平も、手を離したのなら。
もう新しいことを探しに行こうかな、と。
そう思った。
まずは、僕のいまの携帯電話に康平のメールアドレスと電話番号を登録して。
いつでも会えるよ、と送った。
僕のほうこそ、ごめん、と。
それを言うのは、会ってからにしよう。
無責任に手を離したこと。
話し合いの機会も持たずに連絡を絶ってしまったこと。
何より、僕の考えをちゃんと伝えようと努力しなかったこと。
今なら素直に、それを伝えられる気がした。
その日の夜に康平からの返事が来て、二日後の土曜日のお昼過ぎに会うことになった。