紫陽花 2
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康平との間に軋みを感じたのは、いつからだっただろう。
在学中は康平の家で活動していた僕たちも、卒業すると近くに事務所を借りた。
古い雑居ビルの一室だった。内装はそこそこにきれいだけれど、入口の磨りガラスのついた鉄扉が築年数を感じさせた。
開けるとギギと音がするし、かなり固い扉だったから、事務所に人がいる時はいつもドアストッパーで開け放しにされることになる。
事務用の机も椅子も入れて、インターネットの回線も引いた。
それから、給湯コーナーにはちゃんとしたコーヒーメーカーを置いた。
そのコーヒーメーカーだけちょっと場違いな感じだったけれど、僕はお気に入りだった。
そこから1年くらいは、いまあるアプリと会社を維持するってことに手いっぱいだった。
会社をやるって大変だ。
電話がかかってきたら出なきゃいけないし、経理だってやらなきゃならない。
学生時代には適当にやっていたことも、社会人になったからにはしっかりやろうって2人で、やり始めた。
とはいっても大学出たての2人が会社経営の何ができるわけでもなく、自営業を営む康平の両親と、会社経理の経験が長いうちの母親がボランティアで助けてくれた。
杜撰な管理へのお説教付きなのは仕方がない。
教えてくれる人が運よくいたとはいえ、新しいことを覚えるのって大変だ。
でも、経理や庶務みたいなことは、ほとんど康平が引き受けてくれた。それをしながら、彼は次にアプリに増設するステージの内容について考え、時には簡単なプログラムを書く手伝いもしてくれた。
僕はひたすらにアプリのバグ修正やステージ増設のプログラムを書き続けた。
しばらくは、それだけで手いっぱいだった。
新作をそろそろ作りたいな、なんて思っても口に出す暇はなかった。
アプリのバグ修正や、ステージの増設、それから会社の管理。
2人でめいっぱい働いても、それだけで手いっぱいだった。
新作を作ろうにも、僕と康平の手が空かないと新しいものは作れない。
しかも、作るものを決めるまでは既存のアプリを研究したり、システムの勉強をしたりするのに時間がかかる。
ある程度の形になれば、あとは僕の作業時間が長いけれど、それだって短い期間じゃない。専念したって数か月、長ければ1年くらいかかると思う。しかも今は大学生の身分じゃないから困ったら相談できる教授もいない。
僕は実はそろそろ新しいものを作りたい気持ちになっていたけど、そんなことは言い出せなかった。
康平にとっては今あるアプリに新しいステージを増やしていくことやユーザーを増やしていくことのほうが楽しい作業みたいだったから。
思えば、これが最初に感じた違和感だった。
でも、これはまだ目には見えない水面下での、ほんのすこしのひび割れだった。
僕たちが作っているアプリは無料でダウンロードできるけれど、有料でアイテムが買える仕様になっていたり、画面に広告が入ってきたりする。
この広告が僕たちの収入源であり、広告を表示させる量やアプリのダウンロード数やアクセス頻度とかによって収入が違ってくる。
どこに広告を入れるかは自由だけど、たくさん入れれば収入として入ってくる額は大きい。
画面の端に入れるだけじゃなく、ポップアップで広告を表示させるっていうのもある。
広告は少ないほうが画面も美しく、見やすい。
でも少ないと、当然実入りも少ない。
難しいところだ。
この難しさが、僕と康平の間に本格的な軋みを作った犯人だった。
そしてもう一つの軋みの原因は、上り調子の期間がおわったこと。
アプリのユーザー数は少しずつ減少していったころに問題は起こった。
ユーザー数が減っているということは入ってくる収入も減っているということだ。
今まで得ていたものがなくなるとき、人は不安で落ち着きをなくすのだと思う。
何が原因だったのか、どうすればいいのか、どうすればよかったのか。
決して答えの出ない考えを延々と続けてしまうからだと思う。
そして不安は人の視野を狭くする。
僕は「ユーザーが減るのは仕方がないことだな」という気持ちではあったけど、何とかしなきゃということなら、アプリの内容を充実させたい、と思った。
ステージの更新頻度をあげたり、内容をもっと充実させていけば、またユーザーは伸びてくるかもしれない。
新しいステージを更新する頻度をもっとあげたい、と言った。
康平は「収入が減ったのを回復させたい」って思ったんだろう。
広告を増やさないか、と提案した。
今まで画面の下部だけに表示させていた広告を、上部にもつけたい、と言われた。
できればステージごとのボップアップ広告も、と。
互いに反対した。
康平は「今でも手いっぱいなのに更新頻度を上げるなんて無茶だ」と言った。
僕は「広告を増やしたらゲーム画面が見にくくなるし、操作性も悪くなる」と主張した。
広告だらけのアプリは画面の統一性もなくなるし、美しくないと思う。
それに、広告を増やすためには、画面のデザインも変えなきゃいけないから、手間だってすごくかかる。
僕の主張に「今、手一杯だろ」という主張で反対されるのは納得がいかなかった。
「じゃあ、どうすんだよ」
いい加減にしろよ、と言いたげな声が深夜の事務所に響いた。
向かい合わせのデスクで、パソコンの隙間から向かい合って、結論の見えない話し合いをしていた。
すでに何回目かわからない沈黙が下りている。
康平の視線に耐えられなくて、俯いた。
この平行線の議論を終わらせるために誰かが妙案をくれるなら、何でもするのに、という気持ちだった。
ステージを増やす頻度は今のペースが限界だ。
でも広告は増やしたくない。
もし広告を増やすとしたら、レイアウト変更をすることになるとそれにも手がかかるし、更新頻度がより落ちてしまう。
僕としては八方ふさがりだけど、康平の主張としては、「今、広告を増やす処理をしていけば、少し余裕ができるだろうから、更新頻度を今後下げたって今と同じ収入は見込める」ということだった。
でも、そういうことじゃないんだ。
収入って康平は言うけれど、普通の新卒から見ればあり得ないほどのお金を生んでいると思う。経費を差し引いたって、十分な金額だ。
そういうことじゃなくて、アプリはプレイする人にとって楽しいものであることが必要だ。
これ以上の広告は、それを阻害すると思う。
「やっぱり、広告を増やすのは、違うと思う」
そう言うと、康平はあきらめたようにため息をついた。
また沈黙が下りる。
もう僕はこの話し合いに疲れていた。
「このアプリもうほどほどでいいじゃん」って言ってしまいたかった。「新しいやつ作りたいよ」と。
今から思えば、ちゃんと言っておけば良かった。
僕が、思っていることを全部。
新しいアプリを作りたいって思っていることも。
僕がアプリを作る目的は、誰かに喜んでもらいたいから、っていうだけで収入のことは度外視で考えたいってことも。
このときの僕は、ろくな代替案も出さないくせに反対だけする奴だったと思う。
僕は自分の考えを上手く伝えることができてなかった。
それだけは、本当に、後悔している。
ごめん、康平・・・。
もう一度、彼に会える機会があるのなら、このことは謝りたい。
今なら、そう思うことができる。
なぜなら、この後に起こる事件からほぼ1年が経ったから。
時間が経って、冷静になったことと、時間が僕の心を癒したからだと思う。
僕の頑なな意見に、康平は「わかった」と言った。
その言葉に驚いて、顔を上げた。
ここまで意見を戦わせてきたのに、康平が折れたことが意外でならなかった。
驚きと疲弊で、僕は気が付かなかったんだ。
康平が妙に冷めた目をしていることに。
「まあ結局、実際作業するのは周清だもんな。周清の意見を採る」
康平の声が妙にべったりと甘いような気がした。
「でもさ、周清が限界なのは事実だろ?バイトのプログラマー雇うことにしよう」
示された意外な提案に、目から鱗が落ちた。
そんな抜け道があるのなら、早く言って欲しかった。
「周清は今まで通り骨組みして、ちまちました単調作業とか、簡単なところとかをバイトに任せるようにしてさ。そうしたら、できるんじゃないの?」
それなら、できると思う。
いままでもそういう部分は康平に手伝ってもらったりしていたけれども、康平だってそればっかりしていればいいわけじゃなくて。
プログラムを書くのを手伝ってくれるだけの人がいるのなら、それはとてもありがたい。
「それなら助かる。でも、来てくれる人なんているのかな?」
「それなら、あてがある。このゲームのファンだから、この会社に就職させてくれないか、って奴がいるから、会ってみるか?そいつはバイトでもいいって言ってる」
そうきかれたから、うん、と返事した。
翌日、康平に案内されて事務所に入ってきたのは、僕たちと同じくらいの年齢の男性だった。
しっかりとスーツを着ていたけど、茶髪で軽薄そうな雰囲気とスーツはミスマッチだな、と思った。
「初めまして、森竜樹です。あなたが天才プログラマーの横井周清さんですね」
出だしからの挨拶に、肯定できるわけもなくて、はあ、と曖昧な返事をする。
「天才プログラマー」というのは以前、IT雑誌の取材を受けたときの煽り文句だった。明らかに言いすぎだ。
揶揄われているのかな、と思ったけど、さすがにバイトの面接的なものでそんなことはしないだろうからこれは本気で言っているんだろう。
「そんなもんじゃないですよ」
とは言ってみるけど
「ご謙遜を」
みたいな内容を返されるに決まっているから、この会話は好きじゃない。
ここで否定するのもしつこいし、肯定するわけにもいかないから面倒だ。
「ここのゲーム、すごくいいっすよ。どうすればこんなゲーム作れるんだろうってずっと考えてました。ぜひ、ここで勉強させてください」
学生みたいな彼がそう言って頭を下げたから、ちらりと康平を見る。
「周清に任せる」のサイン。
語尾が少し伸びる学生みたいな話し方にも、軽薄そうな雰囲気にもあんまりいい気持ちはしなかった。
とりあえず、持ってきたという履歴書を出してもらう。
歳は僕たちの一つ下だった。都心の大学を卒業して、IT企業に少し勤めた経験があるようだ。
「えっと、森くんは前の会社はどうしてやめてしまったの?」
「あ~、ちょっとやりたいことと違ったんで。俺は康平さんたちがやってるみたいな開発をやりたかったのに、全然違うことしかさせてもらえなくって」
ありがちな理由だな、と思った。
それと、最初ってそういうもんじゃないのかな、と厳しいかもしれないことも思った。
企業に勤めるって、最初からやりたいことだけやらせてもらえることのほうが少ないんじゃないのかな。
就職活動もしなかった身にはよくわからないけれど。
「それで、俺ここで働かせてもらえますか?」
そういう軽薄な態度や社会人としては甘すぎる考え方が気にはなったけど、プログラミングは自信があるらしい。
ちょっとためらう気持ちもあったけど、根拠もない理由でお断りするわけにもいかない。
代わりの人を見つけてこられるわけでもないし、何よりこれ以上康平と対立するのは避けたかった。
とりあえず数日一緒にやってもらうことにした。
あまりにもプログラムを書く腕が悪かったらそれを理由にお断りしよう、と思った。
けど、プログラミングの腕は本人の言う通り確かだった。
「周清さんのアプリ解析しまくったんで!ヨユーです!」
といって、大して教え込む必要もなく、欲しいプログラムを書いてくれる。
しかもスピードも速い。
プログラミングは齧った程度の康平に手伝いをお願いするよりも段違いで作業ははかどった。
「周清さんの書くプログラムは独特なんですよね」
なんていう話もされた。
彼が勉強したプログラミングスクールの手法を教えてもらったりするのも勉強になった。
そうして、ユーザー数も回復し、康平との問題も解決して、良好な関係が続いていた。
そうして1年が経つころには、森くんは康平と新ステージのアイディアやデザインを考えるのにも参加していて、もうすっかり社員と化していた。
実際、教えることももうあまりないかな、と思っていた。
上手くいっている、と思っていた。
たぶん全員が、そう思っていた。
康平と森くんの「上手く」が僕の考えとまるっきり違うことには気づいていなかったから。
上手くいっているって、信じてたんだ。
あの話を聞くまでは。
あの日も、事務所の扉は開きっぱなしだった。
僕はやるべき作業が終わったから、そろそろ帰らない?と提案したら、先に帰ってくれ、と2人が言う。
珍しいな、と思いながらも言う通りに先に帰った。
ビルを出ようとしたら、雨が降っていた。
傘なしではつらいな、と思うくらいの強い雨。
仕方ないから、事務所に戻って置き傘を持ってくることにした。
再び事務所の階に戻り、近づいていくと、なんかタバコ臭い?と思った。うちの人間は誰もタバコは吸わないはずだけど・・・。
ドアが開きっぱなしの事務所の入口から、二人が話している様子が見えた。
森くんが行儀悪く机に座って、たばこを吸っている。
「おい、ちゃんと換気しとけよ。周清にばれるとうるさいぞ」
康平のそんな声が聞こえたから、中からの死角にそっと身を隠した。
見なかったことにして、落ち着いてから傘をとろう、と思った。
「はいはい、わかってますよ」
慣れた様子の返事だ。これが初めてじゃないんだろう。
何回か給湯スペースの換気扇がつけっぱなしだったことがあったのはこれが原因か。
「つか、もう良くないっすか?俺、周清さんの技術全部盗み切ったし」
「お前、もう全部のプログラム書けんの?」
「いけますよ。あの人って独学だからかなりクセあるんすけど、1年みっちり教えてもらえばクセくらい掴めますよ」
薄ら笑いと共に吐き出された言葉に、悪寒がした。
プログラムの技術を盗む・・・?
「じゃあ、もういいのか?」
「いいっすよ。ユーザーが飽きて離れて行く前に、広告ガンガン入れて稼ぐべきでしょ」
なにが『もういい』のだろう。広告の話はとうの昔に終わっている話じゃなかったのか。
「そうか」
無表情で、康平が相槌をうった。
「今更、ためらってるんですか?最初からそのために俺に声かけたくせに」
タバコの煙と共に彼の口から出た言葉に、体が固まった。
「もっと融通の利くプログラマーと組みたいって康平さんが言うから俺がきたんじゃないっすか。それに俺のほうがあの人より企画もデザインもできるし、康平さんの助けになれますよ」
聞こえてくる話が、信じられなくて。指先が冷たくなっていくのを感じた。
1年前のことを思い出した。
意見をさんざん戦わせたあとに、僕の意見を採るといったときの康平の冷たい瞳。
妙に甘い声。
あれは、そういうことだったのか。
1年前から、仕組まれていた・・・?
森を採用することに決まった時から、計画されていたことだったんだ。
康平は、僕じゃなくて、森をパートナーとして選んだ。
愕然、という言葉はこんな時に使うのだろうな、と頭の冷静な部分が告げる。
力が抜けた。
もう、何も考えたくなくなった。
こんな話をきいてしまって、どうしたいとかどうするとか、そんなことにまで頭が回るはずもなくて。
気力も体力も知力もすべて流れ出してしまった感じだった。
「康平さんも、どうっすか?」
森がタバコの箱を、康平に向けた。
康平は煙草を吸わないのにな、とぼんやりと考えたけど。
「一本だけ、くれ」
受け取って、借りたライターで慣れた様子で火をつけた。
それを見て、もう僕と顔を突き合わせて画面を見ていた康平はいないのだと思った。
康平は、タバコの煙をゆっくりと深く吐き出した。
そうして、呟いた。
「それなら、もう周清は、いらないか」
目を閉じて、唱えるようにそう言った康平の言葉は小さい音量だったのに、やけにクリアに僕の耳に届いた。
雨の音は、その言葉をかき消してはくれなかった。
わざと足音を立てて、事務所に入った。
「周清!?」
康平の気まずそうな顔と、森の驚いた顔が出迎えた。
「康平」
視線を斜め下に向ける彼に向き合う。
なんて言うのがいいんだろう。
考えたけど、何も思いつかなかった。
それに、僕が康平の希望を叶えるために歩み寄れることは、もうないだろう。
学生のときから、僕のかくプログラムのために専門外の特許の勉強をしたり、会社の経理や営業までも一手に引き受けてくれた。
二人の会社とはいっても、康平が製作以外のすべてを賄っている状態では二人の会社とは最初から言えなかったのかもしれない。
「僕は、君と一緒に何かを作る時間が好きだった。意見が分かれたときでもね」
康平は、何も言わなかった。
自分の机から、お気に入りのペンと、携帯の充電器と、愛用の本をカバンにしまった。
森はこちらを向かず、タバコの煙を吐き出している。
もう一度、康平の前に立った。
手にもったままのタバコの灰が、床にぼろぼろと落ちていた。
「じゃあね、康平」
康平が顔を上げた。
その顔はまるで自分が捨てられたみたいな表情だったけど。
何も声はかけなかった。
僕をいらないといったのは、君だ。
走り出したい気持ちを押さえて、ゆっくりとした足取りで事務所を出た。
ゆっくり歩いていたのに、待ってくれという言葉をかけられることはなかった。
外に出る時に、傘を取り忘れたことに気が付いたけど、また戻れるわけもなくて、雨の中を歩き出した。
まっすぐ帰る気持ちにはとてもなれなくて、ファミレスでご飯でもたべてかえろうかな、と思った。
24時間営業の煌々と光る看板が妙に眩しい。
雨に反射しているからかもしれない。
空いている店内の奥の窓際に案内されて、注文を済ませた。
テーブルに両肘をついて、指を組んで、頭を乗せた。
さっきの康平の顔が頭から離れない。
大学のころ、夜通し康平の家でパソコンとにらみ合ったことを思い出した。
『俺、法学部じゃないんだけど』と疲れた顔で言っていた。
アプリの新しい画面ができるたびに、手放しで喜んでくれた。
ユーザー数が増えて桁が変わるたびに、ガッツポーズをしてた。
あの日々はもう、二度と戻らない。
下を向いたら、涙があふれ出した。
もう、どうしようもなかったし。どうしようと考えるのも嫌だった。
ただ、取り返しのつかないことを受け入れるしかなかった。
数日後、携帯の番号を変えて引っ越しを決めた。
もう二度と、関わるものかと思って。