梅雨空 4
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今日の昼に送ったメールには返信があったから、ちゃんと生きてはいるみたいだ。
「なんか食いたいもんある?」と聞いてみたら「カレー」と返ってきた。
炊飯器はあるらしい。
俺も食べたいし、カレー作るか。
それにしても、家にあんなにもモノがなくて、生活ってできるもんなのだろうか?
講義中なのに、返す予定の服が入った紙袋を見つめながらそんなことを考えてた。
土日のバイト中もあの何もない部屋がちょくちょく頭をよぎった。
一体どうやって生活してるんだ?
実は飲食店でバイトしてて、飯は全部賄いで済ませてるとか?
そう考えてはみたけれど、あいつが飲食店でバイトしている姿が全く想像できなくて、それはないな、と思った。
俺は家の近所のファミレスでキッチンのバイトをしてるけど、けっこう根性いる仕事だ。暑いし、軽い火傷くらいならしょっちゅうだし、なにより段取りのよさが求められる。
あいつには無理そうだな。
そもそも大学ちゃんときてんのかな?
情報系ってことは理工学部かな。サークルはやってなさそうだよなあ。バイトもしてなさそう。
でも住んでいる家のスペックといい、おいてある家具といい大学生の持ち物だとは思えなかった。家が相当の資産家とか?家からめちゃめちゃ仕送りもらってるくせに大学は幽霊学生して、ぐだぐだ過ごしてるってことか・・・?
それだったら、なんかめちゃめちゃ腹立つな。
まあ、聞いてみないことには実際どういう生活なのかはわからないけど。
実は1年じゃなくて講義がそんなにない3年とか、4年だったりして?
いやでも「1年?」って聞いた時にあいつうなずかなかったっけ?うーん。記憶が定かじゃないな。
でも違うなら違うって言うよな?
理工学部の誰かに聞いてみればいいのかもしれないけど、こんな曖昧なこときけるような知り合いは思い当たらない。
あ、でも、そういや佐々木って趣味で情報系の授業とってなかったっけ?
一般教養の単位で、今期にITと情報社会みたいな単位をとってたかも。あとで聞いてみるか。
一般教養の授業ってすげー人いるし、同じ講義をとってたとしても知ってる可能性は少ないけど。ダメ元で聞いてみるくらいはいいだろう。
講義が終わって、隣であくびをしながら体を伸ばしている佐々木に話し掛けた。
「なあ、こういう名前のやつ、知ってる?」
講義で配られたプリントの端に、横井周清の名を漢字で書いた。
知らないか、名前を見たことある程度だろうな、とほとんど期待せずにきいた。
佐々木がのメモをのぞき込んできた。
「どう?名前は、しゅうせい、って読むらしいけど」
響きだけ聞くと、修正ペンとか修正テープとか思い出しちゃうよなあ。
「え?」
あまりに驚いた顔でこっちを見てきたから、俺も驚いて「え?」と聞き返した。
「涼がなんでその人のこと知ってるの?」
「ん?佐々木はこいつのこと知ってんの?」
「こいつとか言うな!」
「え?ご、ごめん」
知り合いだったのか?こんな風に怒られるなら、もしかして先輩だった?
「えっと、それで、この人ってうちの学生?」
「学生?涼は学生でその名前のヤツ探してるの?それなら俺が知ってる人とは違うわ」
「そうなのか。でも、一応教えてくれないか。こんな名前ってそんなにいないと思うし」
「別にいいけど。俺が知ってる横井周清は、天才プログラマーだよ」
・・・はい?
天才プログラマー?
「何年か前にIT雑誌に載ってたから知ってるだけなんだけど。スマホのアプリ開発に学生のころからいち早く乗り出して、いろんなアプリ作って、友達と会社作ったって感じの内容だったと思う」
「よく覚えてるな」
「俺、その記事読んでスマホアプリ作りに挑戦してみちゃったりしたからな」
「佐々木ってパソコンとかに強いし、IT系のもん好きだよな」
「そうそう、好きだしそこそこできるって思ってたからさ。俺も横井さんみたいにアプリ作りまくって一発あててやろー!って思ったわけだよ」
「当てられたのか?」
「当てられてたら、あんな狭い部屋に住んでないっての!」
まあ、そうだよな。こいつの家いったことあるけど6畳ワンルームの汚部屋だった。
そこで飲み始めるにはまず部屋の掃除からはじめなきゃいけないくらいには。
もっと広い部屋に住んでたら、もっと広い汚部屋になったのか?それなら今のままで正解だ。
「それがさあ、ちょっとやってみたんだけど、全然よ。プログラミングの初心者用の動画とかみまくって勉強したんだけどさ。練習で作ったページでもうこれ以上無理だと思ってやめちった」
「難しいのか」
「うーん、俺には向いてないって感じかな。なんかけっこう精密作業っていうかさ。ちまちまちまちまやんなきゃいけない感じ。俺はもっと、どーんと素早くガツンとやる作業が好きかも」
「・・・まあ、確かにそれは向いてないな」
「そう。IT関係への就職はちょっと考えちゃうなあ。俺としてはさ、大学在学中にアプリの一つや二つ作ってさ。横井周清みたいに友達と会社立ち上げてばんばん儲けたいって思ってたわけよ」
壮大な夢プランに微妙な相槌しかでてこない。
「ちなみに、佐々木が横井さんのこと知ったとき、その人いくつだったの?」
「ん?うーん、よく覚えてないけど、若いよ。そのときは大学出たてだった思うから、今でも26歳とか27歳とかじゃないのかなあ。写真も見たけど、なんかすごい童顔で高校生って言われても信じちゃえそうな見た目してたなあ」
それをきいて、まちがいないかも、と自分の中で確信した。
「で、涼はなんで知ってるの?」
「・・・・秘密」
さすがにこの近所に住んでるって言う情報は、横井ファンには伏せといたほうがいいだろう。俺が家に入れてもらってるって知れば、自分も連れて行けって言いかねない。
教えろよ、とうるさい佐々木を振り切って、教室を出た。
天才プログラマー、ねえ・・・。
ITのことはよくわからないけど、佐々木が知ってるってことはその業界では有名人だったりするんだろうか。
まあ、よくわからないからそれはいいや。
大学生じゃないなら大学生じゃないってはっきり言ってほしかった。
まるっきり後輩だと思って世話焼いちゃったじゃないか。
まあ後輩じゃなくてもあの惨状はさすがに放っておかなかったと思うけど。
大学の近くにあるスーパーでカレーの材料を買ってから、横井家のピンポンを押した。
今日はちゃんと向こうからドアが開いた
「いらっしゃい」
中に迎え入れられる。
ダイニングに荷物を置いたところで、「コーヒー飲む?」と声がかけられたけど、今はいいです、と断った。
「まずカレー作らないと」
「え、カレー作ってくれるの?」
「だってカレー食べたいって言われたから」
お互いの頭にうかぶハテナマークに戸惑う。
「え、なんかまずかったですか?」
「いや、いいんだ。ありがたいよ。レトルトカレーでも買ってきてくれるのかなと思ってた」
レトルトか!その発想はなかったなあ。
なんかそっちのほうが普通の気がしてきた。人の家に持っていくのに、材料から持っていくって、非常識だったかなあ。
「家で作るカレーのほうがレトルトより美味しいから助かるよ」
その言葉を信じて、作り始めた。
包丁とまな板はかろうじてあったけど、ピーラーはなくって、にんじんもじゃがいもも全部包丁で向くのはなかなか大変だった。
横井くん・・じゃなくて、横井さんはなんか周りをうろうろしたり、俺が野菜剥いたり切ったりしてるのをじっと見てたりしたけど、全然役には立たなかった。
まあ期待はしてない。米炊いてくれただけ御の字だ。
「涼くんは実家暮らしの大学生だよね?」
カレーが煮込みに入って手がかからなくなったところで、そう話し掛けられた。
「そうだけど」
「カレー作るの、慣れてるね」
「うちは母親が看護師で夜勤あるから。父親もしょっちゅう単身赴任だし。小学校高学年のころから家に帰ったら『冷蔵庫にカレーの材料あるからよろしくね』っていう母親のメモがあることもザラだった」
いまでも普通に家族全員分の飯を作らされたりする。
カレーは簡単かつ手間がかからないので俺としては非常にありがたいメニューだ。
まあ、そういうわけでカレーが食べたいと言われれば材料とルーを買っていくのが当然で、レトルトカレーなんて考えもしない文化の中で育ってしまったというわけだ・・・。
日常の癖ってなかなかやっかいだな。
ご飯が炊けて、カレーもいい感じに煮えた。
食器が少ないのはもう仕方がない。カレーを入れるのにちょうどいい皿には家主に譲って、俺は丼を借りることにした。
「おいしい」
そう言ってたべてくれるのが一番作った冥利につきる。
弟なんて当たり前の顔して食って、文句があるときだけ口開くからな。
「この間つくってくれたおかゆも、おいしかった」
「それはよかった」
「ありがとう」
そんな風にストレートにお礼の言葉を言われるって、なかなかない。
家族でも、友達でも。サンキューとか、そういう軽い言葉になって飛び交っている。
しかも、じっと目を見られて、まっすぐに飛んできた言葉に俺はこの人のことが少し好きになった。
「どういたしまして」
笑ってそう返すと、横井さんは目を逸らして、ちょっと耳が赤くなった。
どう見ても、年上には見えないよなあ。
横井さんは食後にコーヒーを淹れてくれた。
コーヒーメーカーからコポコポとお湯が沸く音だけがする。
心地よい満腹感と共にコーヒーが沸くのをただ待っているだけの時間は、やけにまったりと流れる感じがした。
一人じゃないのに、何か話さなきゃというプレッシャーはない。
何の会話もないけど、その時間が全く気まずくなくて、これが自然だとさえ感じる。
家族や友人とのあわただしかったり、騒がしかったりする時間とは全然違って。
誰かといるのに何の会話の必要もない、落ち着いた時間というのが、初めての感覚だった。
彼女がいれば、こんな時間をもつことはあるのかもしれないけど、残念ながら今までのそんな機会はなかった。
外は雨が降り始めたようだ。
雨の音が道路の喧騒も、歩行者の声も遮断して、コーヒーの香りがふわりと部屋を満たしていた。
この世界に俺たちしかいないみたいな、落ち着いた時間。
新品のマグカップに注がれたコーヒーは香り高いけど軽めの味で、カレーの後にはちょうどよかった。
「おいしい」
熱いコーヒーを一口飲んで、香りを楽しむために吐き出した息でそういった。
「それはよかった。今更だけど、ミルクや砂糖はいれなくて大丈夫?」
「うん。おいしいコーヒーはそのまま飲みたい」
ここでのコーヒーは、インスタントやファーストフードのチェーン店で出てくるコーヒーとも違う。自宅にもコーヒーメーカーがあるにはあるけど、それで作るのとも全然違う。
コーヒーメーカーの値段なのか、それとも豆なのか。
こだわりを持ったことがないからよくわからないけど。
そこまで考えて、ちょっと後悔した。おいしいコーヒーを飲んでいるときに考えることがコーヒーメーカーの値段って・・・。あまりに現実味のありすぎる自分の考えにがっかりした。
「そんなに褒められるほどのものじゃないけどね」
でも豆はそんなに安物は買わないかな、と付け加えた。
横井さんも一口飲んで、満足そうに息を吐いた。
コーヒーが好きな、不思議な人。
俺が横井さんについて本人から得ている情報はそれだけだ。あと家事能力ほぼなし。
そんな人と、家で一緒にご飯を食べ、コーヒーを飲み、他愛のない話をするのだから、不思議なこともあるものだな、と思った。
「もしコーヒーより好みの飲み物があれば、用意しておくけど」
「いい。俺はここで飲むコーヒー好きですから」
そう答えると、横井さんは不思議そうな顔をした。
「なんで今日はちょっと敬語混じりなの?」
「だって、横井さん、大学生じゃないでしょ?」
今日、佐々木から聞いたばかりの情報を確認すると、困ったように笑った。
年齢や職業まで教えてもらおうかと思ったけど、そんな風に反応されてしまえばこれ以上のことを聞くのはためらってしまう。
「そうだけど、今まで通りにしててよ」
そんなこと言われても、さすがに後輩扱いはできない。
「じゃあ、呼び方だけは、横井さんにする」
「うん、好きにしたらいいよ」
そう言われたから、ちょっと冗談のつもりで「じゃあ、周清」と呼んでみたんだ。
ばっと音がするんじゃないかって言う勢いで、横井さんの顔が上がった。
その表情は驚きに満ちていて、顔色も悪くなっていて、こっちが驚いた。
なんで驚かれたのかはわからなかったけど、なんかまずかったんだな、ってことだけはわかって。
「冗談だよ。ごめん、横井さん」
謝っても、顔色は戻せなくて。
「いや、こっちこそ、ごめん」
それきり、何を話し掛けても反応が鈍くなってしまった。
なんかわからないけれど、俺が取り返しのつかないことをしたんだろうな、ということだけはよくわかった。
「コーヒー、ごちそうさま。服もありがとう」
服が入った紙袋を渡して、席を立った。
この受け渡しが終われば、もうここに来ることもない。
「じゃあ、俺は、帰るから」
さっきまでのまったりとした時間の名残は跡形もなく消え、冷え冷えとした気まずい空気がリビングを覆っていた。
こんな形でこの人との関係に終止符を打つことになるなんて。
それがなんだか酷く、残念だなって思った。
外に出ると、雨脚は強まっていた。
ザーザーと耳障りな音がするほどだったけど、傘はもっていなかったから駅まで走った。