梅雨空 3
3
久しぶりに味のするものを食べたな、と塩をふったおかゆを食べながら思った。
おかゆを煮て、塩と漬物をそえてくれた彼は、ほかにも買い物をしてきてくれた。
2Lのスポーツドリンクと野菜ジュースを冷蔵庫にいれて、パスタやチャーハンの簡単な冷凍食品を冷凍庫にいれていった。
「じゃあ、俺は家に帰る約束してっから」
そういって、洗濯機から自分の服を回収して帰っていった。
お金を払おうとしたけれど、「俺が勝手に買ったもんの金を後輩から受け取れない」と言い、「週明け、借りてた服返しに来るから、それまで生きててくれよ」と言い添えて帰っていった。
ああ、そういえば後輩だっていう誤解をまだ解いてなかったのか、とぼんやりと考えているあいだに「じゃあな」と玄関で手を振って彼は帰っていった。
そんなに若く見えるだろうか・・・?
昔から若く見られることは多かったけど、さすがに10歳近くも若く見られたのは初めてだ。
大学1年生には見えないと思うんだけどなあ・・・。
青木涼、と名乗った彼は、名前の通り夏の高原に吹く涼風のような男の子だと思った。
涼という名前がぴったりで、人の名前をストックする機能がついていない僕の頭にもするりと入ってきた。
背の高さは同じくらいなのにしっかり厚みのある体つきをしていて、スポーツやってるんだろうな、と一目でわかる。
髪は短めでさわやかな感じにセットしていて、好青年のお手本みたいな子。
最近の若者って感じだったけど、家に招き入れた瞬間その印象は変わった。
主夫でもしてるのかな?ってくらい何もかも段取りがてきぱきしてて、こっちが一つのことを考えているあいだに3つも4つも先の段どりを考えてる。
僕は彼に言われるままに着替えを探し、洗剤の位置を教えるともうすることはなくなってしまった。
洗面所を追い出されて、キッチンに立つ。
お客さんがきたら、お茶かな・・・?
彼が作業をしているあいだにコーヒーメーカーでコーヒーは作ったものの、カップがない。
客用のカップ、どこかになかったっけ?台所の棚の扉を明けてみるけど、わずかな食器しかない。そこにカップの姿はなかった。
しょうがないから、自分のマグカップを洗ってからできたてのコーヒーを入れた。
洗面所から出てきた彼が着ていた僕のTシャツは胸と二の腕がちょっときつそうで申し訳なかったけど、彼はそれを着て帰りたいという。しかも下はスウェットなのに。
それならそれで、構わないけど・・・。本当にそれでいいの?という言葉は飲み込んだ。
割とお洒落な私服を着ていたくせに、そういうことは全く気にしないらしい。
今、洗濯している服は明日取りに来てもらうことになって、コーヒーと洗濯のお礼を言って彼は帰っていった。
マグカップを再び洗って、コーヒーメーカーにできているコーヒーを飲んだ。
後から思えば、これが悪かった。
もともと自分は食欲が旺盛なほうではない。食に頓着しないタイプだ。
嫌いなものもないけれど、これといって好きなものもなく。多くても少なくても出された分は食べきるし、食べても食べなくても体形は全く変わらず細いままだ。
お腹がすいても、食べるものがなければ買いに行くより諦めて眠ってしまえば大丈夫。
実家で暮らしていたときは母が作ってくれたものを食べていたからちゃんと一日3食食べていたけれど、これが一人暮らしになるとまったくダメだった。
会社に勤めていた時は、朝はコーヒー、昼は外食、夜は食べても納豆ごはんと豆腐、あと気が向いた時はパスタをゆでる程度の生活。
同僚からは「その生活でよく生きてるな」なんて言われたこともあった。
それでも昼だけは近隣の定食屋でしっかりしたものを食べていたから、栄養が足りてないとか思ったことは一度もなかった。
会社に行かなくなってからは、朝か昼かわからない時間に起きて、ぼうっと過ごしていることが多くなったからか、空腹もあまり感じなくなった。
米を炊くくらいはするけれど、納豆と豆腐をある程度ためておいたりして、たまにお弁当を買ってきたりするくらいだ。
あの日、家の食料品が尽きていることはわかってたけど、雨の中でかけるのがどうしても億劫で朝コーヒーを飲んでからぼうっと寝たり起きたりを繰り返していた。夜になってやっと雨が止んだのを見て、何か買いに行くことにした。
頭に霞がかかっているみたいにぼうっとするけれど、さすがにそろそろ何か買わないとまずい。
スーパーは駅を挟んで反対側に行かないとない。
仕方ないから、買い物に行くか。
そう思って、出掛けることにした。
エレベーターを待っているあいだにスマホにネットニュースを表示させる。
IT関連のニュースが多く表示されてくるのは、このサイトが自動でユーザーの好みを識別してくれるからなんだろうけど。もう必要ないからやめてくれないかなあ。
それでもやっぱり携帯端末の最新機器情報が出れば気になるし、アプリの開発情報だってつい目がいってしまう。
・・・もう、興味を持つのもやめたいのになあ。
そんなことを考えていたら、マンションのエントランスを出て、駅前の十字路にさしかかっていた。
こういう好みに応じたニュースや広告の表示って最近すごいよなあ、どういうプログラム組むとできるんだろ。あとで調べてみようかなあ。
ニュースを読みながらそんなことを考えていたら、信号が青になったような感じがした。
車の走る音が止まったからだと思う。
何も考えずにスマホを見ながら歩き出したら、大きなクラクションの音がして驚いて顔をあげると、トラックが目の前といってもいい距離にいた。
あ、やばい、と思っても体は全く動かなかった。
クラクションの音と、ヘッドライトが近づいてくる。
クラクションの音は妙におおきく、ヘッドライトはやけにまぶしくみえた。
近づいてくるトラックが妙にゆっくりに見えて、後ろに下がらなきゃいけないことはわかるのに、体は動かない。
「あぶないっ」
クラクションの音を割って、誰かの声がした。
同時に、右腕を引かれた。強い力だった。
少し後ろに下がればよかったのに、その力の強さで後ろに倒れ込んだ。
ろくに受け身も取れないから、かなりの衝撃を覚悟した。
痛そう、と目をつむるけど、予想していた衝撃は来ず、体全体がやわらかいものに当たっただけだ。足はちょっとアスファルトに打って痛かったけど。
目を開けると、紺色のシャツが目の前にあった。
「あの、大丈夫ですか?」
頭の上から聞こえてきた声に、はっと我に帰る。
慌てて立ち上がって、腕を引いてくれた彼に手を差し伸べた。
彼はシャツもズボンも水たまりでぬれてびっしょりなのに、それについては何も言わずに帰ろうとする。
おそらく近所の大学生だろう。
駅に向かっているってことはこれから電車で帰るところなのか。
さすがにそんな状態で、大学生を電車に乗せて帰すわけにはいかない。
クリーニング代金は払うつもりだけど、とりあえず洗濯かな。
乾いた服で帰れるようにしてあげないと。
さすがにこのまま放っておくわけにはいかない。
ええと、こういうときってなんて声かければいいんだろう?
いきなりうちに来ませんか、じゃ怪しすぎる。
考えているあいだに、信号が青になってしまった。
「あの」と呼びかけても彼は振り向かない。
結局袖を引いて、「洗濯しますか?」と唐突な言葉がでてきた。
彼も唖然としていた。
そりゃあそうだ。普通こういう場合ってクリーニング代払いますっていうのが常套句な気がする。もちろんそれも払うつもりだけど。
そんなことがあったせいで、空腹だったことは再び忘れ去ってしまった。
何も買わずに帰ってきてしまったけど、再び出かけるのも面倒で。
コーヒーを飲んで気持ちが満足してしまったから、もう寝てしまおうと思ってシャワーを浴びた。
シャワー室から出た瞬間、めまいがして、壁に寄りかかった。
世界がぐるぐるまわっているようで、気持ちが悪くなって、冷や汗が止まらなくなった。
なんかまずいことはわかったけど、何もできることがない。
何とか服だけ着て、ベッドに倒れ込んだ。
気持ちが悪いのをこらえて目を閉じる。
世界がぐるぐるまわっているようで、目を閉じていられない。
でも目をあけているといつまで経っても眠れない。
目を閉じて、意識が遠くなるのをじっと待った。
何度か目が覚めて、うつらうつらとしてたら、外が明るくなってるような気がした。
それでも起きる気分にはなれなくて、そのまま昼になって、たぶん夕方になってた。
スマホが何回か鳴っていたような気もするけれど、夢との境をさまよっている自分には現実感がなくて。
はっきり意識が戻ったのは、涼くんに起こされてから。
貧血や栄養不足倒れそうになることはたまにあるけど、さすがにここまで重症なのは初めてで、死ぬかと思った。
死ぬにしたって、あんなに苦しい死に方は嫌だ。