命を守る行動
”命を守る行動を!”
どのチャンネルを回しても、どのサイトを見ても、繰り返されるフレーズに、いちいち反応していた頃が懐かしい。
「命を守る行動を!って、誰も助けに来ませんよ!って、結局そーゆーことじゃねーか」
あの頃は、空腹と苛立ちの時代の幕開けで、そう誰もが思い始めていたはずだ。
思い出を振り返るようにビデオを再生し、今となっては聴くこともなく、ただただ身体にしみついた、いや体中を駆け巡る赤い血や、細胞の一つ一つにまで、染み付いたその言葉が、男の口からも、スピーカーとハモるように、湿り気を帯びた室内に放たれた。
「命を守る行動を・・・」
「でも、命を守る行動を、って聴けてるうちは、私達はまだ生きてるってことでしょ?」
男の口から呟かれた言葉の周波数を、子供たちを寝かしつけたばかりの妻の絵里が、空気中から拾い集めて、男よりも高い周波数で応じた。
だが、恵利の言葉は励ましにも慰めにもならなかった。
かつて”ゲリラ豪雨”と呼ばれた非正規の豪雨は、各地で猛威を振るい、正規軍の救助活動を阻むどころか、その組織自体を壊滅させた。死と隣り合わせで、生きるための術を装備した人間たちの集団をも、豪雨は組織として屈服させたのだ。
豪雨は容赦なく、無差別に、破壊の限りを尽くした。雨水はいたるところであふれ出し、国土を覆いつくしていった。
男の家も例外ではなかった。今では、濁りきった川なのか海なのか、判然としない流域の底で、おそらく屋根も壁も柱も、全て流され、コンクリートの基礎さえも、すでに汚泥に浸食されているに違いなかった。
男の飲み干したコーヒーカップに、新たなコーヒーが注がれた。消費期限切れのコーヒーの苦みは、本来の苦みではなくなっていた。でもそんな味にさえ男の味覚は耐えるようになっていた。
「寝たようだね?」
「ええ」
「雨も止んでる。焚火でもするかな?」
「ええ」
二人は室外に出て焚火の準備を始めた。流れ着いた板や枝で作り、ビニールシートで厳重に防水した倉庫から、折り畳みの椅子やテーブルや焚火台を取り出した。肝心の小枝は短い乾季のうちに拾い集めたもので、厳重にパケージングされている。もはや焚火は唯一の娯楽であり、癒しであり、神聖な儀式になっていた。
「また山津波があったって。
半年前までいた第17コロニー、連絡が途絶えたらしいわ」
たまに聞こえるラジオ放送から流れたニュースを、絵里が再放送した。
「みたいだね」
男はうなずき、焚火にそのコロニーにいた友人の数だけ、小枝を加えた。二人は焚火の炎を見つめ、その揺らぎの波長に身も心もゆだねた。その儀式は、人として失ったもの、傷ついたものを、短い間だが修復させる力を持っていた。
焚火の炎が、二人のそばに横たわる白く塗装された金属の車体を、妖艶に染めた。まるで命でも宿っているように。
「佑の選択は正しかったわね」
「今までのところ・・・」
佑の家が流された時、まだ火災保険の制度は機能していた。保険金と貯金で、高台の家や山奥の家も手に入れることはできた。佑はその選択をしなかった。絵里は最初反対だったが、しぶしぶ佑の決断に応じた。納車まで1年待った。納車後すぐにそれを作っていた工場は水没したから最終モデルだった。それが屋根にソーラーパネルやら、フルオプションで手に入れた水陸両用キャンピングカー「パイオニアCLK2600」だった。
佑は、第17コロニーにいた友人の数だけ小枝を継ぎ足した。焚火の炎は勢いを増した。だがそれも一瞬の出来事に過ぎなかった。