夢待ち人
校舎裏の金木犀の木。
そこが彼女の好きな場所だった。
「やあ、先生」
白い指がページを捲る。
遅れて返事をすると、彼女は私の顔をまじまじと見つめた。
膝の上には変色したノートが乗っている。
「こんな所に来るなんて、生徒から陰湿にいびられでもした?」
笑いを堪えた、くるくるとした瞳。
最初こそムッとしたものの、今ではそれも挨拶変わりの冗談なのだと受け止める事が出来る。
「そんな事で堪えはしないよ」
「でも、先生は泣き虫だからなぁ」
「あのね、私が先生だったのは……」
「はいはい。昔の話だ、ってね」
カサリと音を立てる茶色いページ。
淡いブルーの丸い文字と、細く角張った文字が数行ごとに書き込まれている。
心を読んだように人懐こい目が私を見上げた。
「懐かしい?」
「見当たらないと思ったら、君が持ち出していたのか」
「やだな。借りてただけですよ」
「20年も無断で持ち出すのは、借りたとは言わないよ」
「私の物でもあるじゃない」
ひらりとまた、ページが捲られる。
淡いブルーの文字は何度も同じ単語を綴っている。
"母さんが仕事を早退しました"
"今日は一緒に母さんと夕飯を食べました"
"母さんは、いつも遠くを見ています"
―――ねえ先生。どうして、人は幸せを忘れてしまうのでしょう?
「先生」
我に返る。
彼女は、まだそこにいた。
「今でも分からないよ。お父さんがどこに行ってしまったのか」
切り揃えられた前髪の下で、猫のような大きな瞳が私を見ている。
……そう。前にも私はこの目を見ている。
前にも、同じように答えられなかった。
「お母さんじゃない人を選んだ。それは分かってるんだ」
湿った風。
散った金木犀が地面を擽っている。
「それなら……お母さんを好きだったお父さんは……家族の幸せが幸せだって笑ってたお父さんは、どこへ行っちゃったのかな?」
名前を呼ぶ。
そうすると、彼女は笑った。
「私を見てくれたのは、先生だけだったよ」
私は思い出す。
20年前の夏。私は受け持っていたクラスの生徒にノートを与えた。"その日あった事でも、感じた事でも何でも良い。好きな事を書きなさい"。そんな言葉と共に。
生徒達のメッセージに対して、担任である私が返事のコメントを返す。謂わば交換日誌のようなものを目指していたのだ。
だが、小学生はともかく高校生にはあまりに億劫で、下らなかったのだろう。
ノートを提出する者はいなかった。
ただ1人を除いて。
「分かってるよ。先生は優しいから」
「……何の事だ」
「学校ではいつも一人で、親も行事どころか三者面談にもなかなか来ない……そんな可哀相な生徒を気にしてくれてたんでしょ?」
紺色のブレザーの肩を、つうっと赤い夕陽が照らす。
……赤。
また、私は思い出している。
「お母さんと本音で話し合いなさいって、必ず分かり合えるって。先生は書いてくれたよね」
教室の3列目、真ん中の席。
手首から血を流して項垂れている、あの日の彼女の姿。
"うそつき"
血を浴びたノートの隅に書かれた小さな文字。
あれ以来、私が教鞭を取る事はなくなった。
「泣き虫な先生」
くすりと、彼女が笑う。
記憶となんら変わらない含んだような笑み。
「ごめんなさいって、許してくれって震えていた先生」
「……あの頃私は若かった。正しく向き合った事は全て報われるはずだと、信じて疑わなかった。そのせいで君を……」
すまなかった。
今となっては無意味で何も生み出さない言葉だ。それでも私は言わずにはいられなかった。
だが、彼女は遮るように立ち上がった。
「良いんだよ。もう」
「私は……」
「それよりいこうよ」
差し出される手首に傷跡はない。
ただ、白い手のひらが真っ赤に染まっている。
赤い夕焼け。
「ね?ひとりぼっちで可哀相な、私の先生」
風が吹いた。
散っていたはずの金木犀が花を擦り合わせて揺れている。噎せ返るような、甘い匂いを吐き出しながら。
そんな夢のような光景の中で彼女は微笑んで。かつて一人きりで座っていたベンチで、とても嬉しそうに私を見ている。
ああ。
こんな日を、私はずっと待っていたのかもしれない。
「一緒に、ずっとひとりでいよう」
白い手に手を伸ばす。
甘い匂いは強くなり、辺りの景色も赤くぼやけていくようだった。
曖昧になる世界に反して、彼女はしっかりと私の手を握った。
「大好きだよ、先生」
あの頃と変わらない、無邪気な笑顔で。