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あなたの香りを永遠に憶えている。犬なので。

作者: quiet

 やばいやばいと私は思っていたし、先輩も時折これは流石にやばいかなという表情を見せていたのだが、何せそこは愛し合う二人、甘やかし甘やかされ歯止めも効かず、すっかり私は犬になってしまった。


 先輩は「ごめんなさい、私のせいで」と、しとしと美しい顔で幾つもの夜を泣き明かした。しかし、やがてほとんど人間としては行方不明になった私について何らのアフターフォローを行わなくても支障なく二ヶ月が過ぎてしまったことに気が付くと、およそこの世で私に興味をもつのは先輩の他になく、また私も先輩以外に興味を持っていなかったということが理解できたらしい。悲しみは消えなかったようだが、涙は終わり、生活が始まった。


 住人のいなくなった私の部屋は引き払うことになった。それから一週間ほどは先輩の部屋に住んでいたが、しかし随分と綺麗に保存されていた契約書類に『ペット禁止』の文字を見つけては日々衰弱していく先輩の姿を横目に見て、病の訪れがそう遠くないことは明らかだったので、私は外の世界に居を構えることとした。

 色々と街を回ってみて、結局数年前に卒業した大学キャンパス内で過ごすことにした。これが意外に快適で、構内でひとり呆然としている学生の横に座り、何も言わずにただ飛び回る蝶などを眺めていると、どういう理屈か勝手に感動され過剰なくらいの食物が提供されたりした。パッと見の毛並みが良かったのが幸いしたのかもしれない。


 そういう生活にも慣れ始めた頃になって、先輩が迎えに来た。それまでもたびたびやって来ては「ごめんね……ごめんね……」とうわごとのように繰り返してはこの世の終わりのような申し訳なさを抱えて家に帰っていく先輩だったが、この日は様子が違った。首輪とリードを持ってやってきた。まさかとうとう頭がおかしくなってここでよろしくおっぱじめるつもりなのか、と思ったが、そんなことはなかった。

 「ペットOKのところに引っ越したの」先輩はやつれて見えた。この人は己の身を削って他者のために尽くすのが習性レベルで刻み付けられたかのような人である。つまりは私とともに暮らすための環境を過重労働で整えて、そして私を家に連れて帰るためにその日はやって来たらしかった。頭がおかしくなったのは私だったようである。犬なのだ、許せ。


 私と先輩の生活について語ろう。と言っても、私単体についてはそれほど語ることもない。一般的な独居者の家にいる犬について想像してみるといい。大体それだ。強いて違いがあるとするなら暇つぶしの手段を知っているということくらいか。


 専ら先輩のことである。

 先輩も人であったころの私と同じく労働して生計を立てている。神経質な人なので遅刻するのを恐れ朝五時には起きる。日中の様子は先輩が一言も具体的な愚痴(またはそれに類するもの)を零さないために私に知ることはできないが、昔から能力自体は高い人である。しかし帰ってくるころには日付が変わっている。よほどひどい会社で働いているか、偏ったタスク配分を抱え込んでいるか、どちらかで、どちらでもあるように思える。


 平日は起きて眠るだけの生活しかしていない。口癖は「構ってあげられなくてごめんね」であり、これが私の犬に変わる前であれば、家事のすべてを行うなり、安定収入源を引き受けて先輩にはのびのび自由にしてもらうなりと、色々やれることもありそうなものだが、いかんせん犬である。冬の日に湯たんぽ代わりになるのが精々で、夏の日にできることは何もない。


 が、先入観を抜きにしてまっすぐに見つめてみると、先輩にとっては私が人であるよりも犬である方が喜ばしく思われていると見えた。たまの休日に私と近所を散歩しているときも、日がな一日私を撫でまわして終わってしまう日も、先輩はどことなく儚げながら満ち足りた顔をしていたし、何よりこの人は根本的に人間が苦手であるのだ。


 私が甘やかされに甘やかされて犬になってしまったことからもわかるように、先輩は(そして私も)人と適切な距離を取るのが破滅的に苦手な人なのである。

 人に距離を詰められれば詰められるがままであり、求められると断れない。ついでに言うなら生来の奇妙な奉仕精神と自己否定的な性向が相まっておよそ幸せからはほど遠い人が出来上がってしまった。誰にとっても都合良く振る舞ってしまう割に誰のことも愛せないような人である。人と接すれば接するほど擦り切れていくのだ。


 私はといえば何でもないことをして人の精神を木っ端微塵にするのが好きといえば好きだがどうでもいいといえばどうでもいいという性格をしていて、およそお互いに相容れるところの全くないようなふたりだったが、出会いが非常に幼く精神の柔い頃だったために変なハマり方をして抜けなくなってしまった。


 一線を越えた理由は先輩がその妙なハマリ方を運命と好意的に解釈し、これでダメならもう何もかもダメだという弱々しすぎる覚悟と諦めを覚えたためだが、先輩はこうした選択によってどんどん追い詰められていった。私が人間だった時代の終盤においては、優しい笑顔と今にも嘔吐反射を起こしそうな苦痛の表情が交互に現れていたし、体調について聞くといつでも頭痛なり腹痛なりを抱えていた。

 自己同一性の揺らぎだとか他人の人生に対する責任感の重さだとか色々と名前はつけられそうだが、シンプルにまとめてしまうと、この人は人間が嫌いで愛も苦手だった。随分と器用で誤魔化しの上手い人でもあったので、たぶん周囲の人間も、先輩自身も気付いていなかったと思うが。


 そういうことで、先輩にとって私が犬になった、というより人間でなくなったというのは、憑きものが落ちたような、そういう出来事だったのだろうと思う。関係性が定まったのだ。先輩に優しい形で。


 とても健康で文化的な生活を送っているとは言いがたい先輩だったが、私の犬っぷりが板について罪悪感が薄めていくにつれ、みるみる体調は快復していった。たまに浮かべる笑みからも薄幸の色がやや抜け始めた。


「私ね、いま幸せなの」


 なんて言葉を聞くとは思わなかったし、実際に私が人間のままであれば一生先輩がこんな言葉を口にすることはなかっただろう。人間として生きてきた自分の時間について考えると、やや傷つくような気持ちもあるが、私もかつてはこの人を一生傷つけながらでも傍で過ごそうと都合の良い顔で居座っていた身である。むしろこの人が私をもっと傷つけてくれればいい、とも思うが、生来図太い性質だ。一生かけてもこの人の一日分も傷つくことはできまい。


 何はともあれ、先輩は幸せになりつつあった。諸々の不安要素について目を瞑ってしまえば。

 しかし小康が脆くも崩れ去るまで、それほど時を待たなかった。目を瞑っていたのが悪かったのだと思うが。


 犬になってから二度目の夏が来て、先輩は早朝ランニングを始めた。

 この人は苦痛が好きなんだろうか、と思いながら乏しい表情で並走したり、公園で先輩の走り終えるのを繋がれたまま待ち受けていたりすると、ある日見知らぬ人が私を見ながら、先輩に話しかけてきた。

 「かわいいワンちゃんですね」ナンパであった。


 正直に言ってしまうと、もう先輩とは恋愛関係を解消してもよいと、私はそう思っていたのだ。土台、犬と人である。いくら犬になった原因に先輩との関係が混じっているといっても、それを理由に関係を続けるのは無理がある。何も言わずにいたが関係は明らかに変化していたし、後は律儀な先輩相手だ、解消契約でもして終わりにするのがいいだろう、と。

 飼い犬のまま幸せになっていく先輩を見続けるならそれでもいいと思っていたし、それもダメなら夢幻のように消えてどこか名も知れぬ地で野良犬として生きながら先輩の幸せを祈るでもよいと思っていたのだ。器質的な理由かは知らないが、犬になってから私は穏やかになった。


 話しかけてきたその人物(仮称を公園の人としよう)は、そういう意味では安心できそうな人間だった。先輩と話しているのを横で数度聞いて浮かんだのは、およそこのような人物と結ばれて幸せになれない人類はおるまい、という壮大な印象であり、生活を営む者であれば誰しも好ましく思うような人物だった。


 しかしそういう予想に応えないのが先輩であるからして、それから先輩はげっそりと痩せた。ああいう人に自分は釣り合わないという思いが強すぎるうえ、自分の私的な領域に踏み込まれるのが相当なストレスを生み出したらしい。ただ少し喜ばしかったのは、このとき、私がいるから他の人とは、という発想については一切言及されなかったことで、先輩の中で私という人が過去になっているということを確認することができた。あまり傷つきはしなかった、と思う。

 この人は痩せても美しいかたちは決して崩れない人で、ただただ儚さを増していくばかりであるので、公園の人はさらに熱を上げた。恋愛感情と責任感と義務感と庇護欲とその他諸々の感情が織り込まれて強烈な一本芯を形成していくのが目に見えてわかった。生活圏が被っていたこともあり、やがて先輩の外出するあらゆる場所において出没するようになった。家の中まで踏み込まれるのも秒読みという予感があった。


 悪いことは重なるものであり、どうも職場の上司からも迫られているようだった。

 携帯の鳴る頻度が日に日に高まってゆき、メッセージにはこの間の飲み会の、といって恋人めいた距離で肩を抱かれた先輩の写真が送られてくる。

 さらに厄介なことにはこの人物(仮称を仕事の人としよう)、仕事にかこつけないと先輩を誘えないらしく、平日休日関わらずとんでもない時間に出勤命令を出す。先輩はもはや人間の稼働限界を超えて労働を行っており、体力は明らかに限界であるが、公園の人とそれから私に配慮してか朝のランニングをやめることができない。

 足の調子の悪くなったふりをして無理矢理先輩を休ませようとしたこともあるが、すると先輩が身体に残ったわずかなカロリーをすべて燃やす勢いで取り乱し始めたので、まったくもって続かなかった。

 ポストに入っていた転職の広告を机上に広げ、選択肢のいくらでもあることを示して励まそうとしたこともあるが、返ってきた答えは「構ってあげられなくてごめんね。お給料安くてごめんね。もっと頑張るからね」とのことだった。


 そして恐ろしいことに、それから先輩はただ会社と徒歩圏内の近所にしか移動しないにも関わらず、次々と人間を惹きつけた。弱れば弱るほど著しく人を惹きつける人である。先輩は人間を相手するのに全く向いていないその生来の気質にも関わらず、数多の恋情やら征服欲やらを一身に引き受けるようになり、心穏やかに過ごせる時間は完全に消失して、さらに健康を損ねた。損ねればまた人を惹きつけた。


 そう時間を置かずして先輩は破滅するだろう、と見て取れた。運命とかそういう言葉なしに人を選べるような人ではない。

 人を惹きつけ、求められ、そのすべてに応え続け、神様でもないのにそんなことができるわけがないのである。私がすべての人間をこの爪と牙で引き裂いて先輩のための静かな世界を築き上げるのがもっとも正しい解答に思えた。が、私にそんな力はない。元がただの人であった、ただの犬である。主のほとんど不在である部屋で、私はただ命を消費する小さなひとつの生き物であった。


 冬の日に、涙を流しながら束の間の眠りに落ちる先輩の、月光に白い首すじを見つめながら、いっそ、と考えていると、最後の通知がやってきた。

 携帯が震えている。眠りの浅い先輩がすぐに目を覚ます。


 夜に光るのは、先輩の両親からの文だった。

 何だかそれが、ひどく妥当な結末に思えた。


 見合いをしろ、という話だった。


 曰く、真面目で要領が良くて明るい子だけれど、器量が良くて頭が良くて高嶺の花じみたところがあるから、この年になってもなかなか相手ができないのだろう、と。

 だからこうして知り合いに話を持ち掛けて、相手を見繕ってやったのだ、と。相手は顔や地位で選ばず、実際に会ってみて性格で選ぶようにな、と。


 そのような話をしているのを、私は小さなクローゼットの中に押し込められて聞いていた。先輩は私を飼っていることを家族に知らせてはいなかった。急な訪問を告げられ、慌てて部屋から犬の痕跡を消した。それから、はじめ私はしばらくまたあの大学の構内で過ごすつもりで家を出ようとしたのだが、先輩が今生の別れのような声で泣くので、このような形となった。


 先輩は見合いの話に触れぬように、当たり障りのないように、最近の生活の話をしていた。


 友人がたくさんできた、仕事は厳しいけど上司がよくしてくれてる、やりがいがある、最近は健康のことを考えて早朝ランニングなんかをしている……、恐ろしいのはこれについて先輩には嘘をついている意識がないということだ。確かにうわべだけ見てしまえば先輩の生活とこの話は一致する。この人は自分すら誤魔化しきっているのである。


 こうした話を聞いた両親の反応は非常に良好で、いや人当たりの良い子だから心配はしていなかったがやっぱり上手くやっているようでよかった、少しやつれたみたいで心配したが若い頃は無理が利くから死ぬ気で頑張るといい、そんなに健康的な生活をしているならやつれたのではなく単に痩せたんだな良い習慣は続けるようにな……、私はこれらの発言が肯定して補強してしまった先輩の認識を修正するのにどのくらいの時間がかかるのかを考えていた。


 しかし、と先輩の両親は言った。

 それはそれとして結婚は早いうちにしろ、と。若さにあぐらをかいていると機を逃す。相手を選べるうちに選んでおけ。とにかくまずは会ってみるでもいいから空いてる日に実家に帰ってこい。それからとにかく候補の中から誰かひとりでも選べ、と。


 逃げ場はなかった。先輩は選ばざるを得なかった。両親はその用件を済ませるまで、決して帰る気はなかったのだ。


 クローゼットの細い隙間から先輩が見える。ファイルへと伸ばすその手は毒杯にするかのごとく震えていて、青ざめた顔色と浮かぶ脂汗を見れば、数瞬後に白目を剥いて失禁しながら倒れ込む先輩の姿が目に浮かぶようだった。


 しかし、先輩は決して倒れないのである。


 そのことを認識して、再確認して、ふとそのとき、一声。


 わん、と。


 声を出して鳴いた。驚いて三人の動きが止まった。私はそのうちにするするとクローゼットの中から脱け出した。それから先輩の痩せた指先が触れようとしていたファイルへと鼻先を寄せた。

 ぱくり、咥えて窓際へ。陽射しの明るい場所で、春の気配を嗅ぐように。そのファイルを腹の下に敷いて、私はもったりと寝転がった。


 あ、と呟いた声が誰のものだったのかはわからない。沈黙は長かったような気もするし、短かったような気もする。


 確かなことは、その沈黙を破ったのが、先輩の笑い声だったということだ。


 歩み寄り、私の隣に座った先輩は、本当に、極端に珍しく、どころかこれまで一度もなかったかもしれないのだが、顔いっぱい、身体いっぱいどころか、あたりの空気いっぱいまで笑っていて、本当に何の愁いもないような、そんな香りをふわりと漂わせていた。


 小さく先輩が窓を開けると、冬にもかかわらず暖かい風が吹き込んで来た。流れに乗って、小さく、気の早い蝶が部屋へと訪れた。


 鼻先へと止まったそれを、意に介さずだらりと寝そべる気の抜けた私の姿を見て、先輩は無邪気に笑って、それから私の頭を撫でた。


 そしてどうやら、先輩は幸せになったらしい。



 ところで先輩のような人が本当に幸せになるとどうなってしまうかというと、春の半ばになる頃にはすっかり桜の樹になってしまった。


 月にならずに良かった、と思う。毎晩声の涸れるまで先輩を呼び続けるのは全く苦しいものであろうし、先輩が距離を苦にして月の海まで涙で満たしてしまう様は想像に難くない。


 それに比べ、犬と桜ならそれなりのものである。

 昔からこういう関係だった、と言われればそれなりの記憶を作り上げてしまいそうな程度には、しっくりくる。


 先輩が人間だったときの香りは、桜になってしまった今ではもうない。すっかりすべて、花の香りに置き換わってしまった。

 しかし私がそれを忘れることはないだろう。あのとき微かに、けれど確かに香ったあの幸せを、私はずっと憶えているにちがいない。


 なにせ、犬なのだから。


 こうして私は、今日も先輩の香りを思い出しながら、花の香りを嗅ぎながら、桜の樹の下ですやすやと、幸せに眠るのである。


 強いて心配事を挙げるとするなら、うっかり地中から腐臭でも漂ってきやしないか、というものがあるが。


 何、私も今となっては犬の寿命である。気にかけることもあるまい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] わーい感想一番乗り(*´∀`) [一言] まぁそういう作品と言えばそれまでなのですけれど、主人公がいきなり理由もなく犬になったのは驚きました。何が原因だったのでしょう? とんでもな理由でも…
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