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この雨と、夜が明けたら

作者: カガミナオヤ





         如何にして我々は区別するのだろうか――

         演ずることを、演ずることを演ずることから。

                           S. Zizek






      ***




 いつだってそれは、唐突で、不躾で。

 けれど決まって、強い雨と――夜を連れて来た。


「や。遅かったじゃない」


 僕を迎えた、軽い挨拶の言葉。マッチを擦るように小さな、けれど明瞭でよく通る

声が、雨音を縫うように廊下を反響していく。掌中の携帯端末から視線を上げると、

暗がりに濡れた姿が浮かんでいた。約束も、合図もないエンカウント。ならば、そこ

に意味はあるだろうか。そんなことを、ふと問い掛けてみたくなる。常夜灯が照らす

横顔は水を帯びて、しどけない笑みを浮かべていた。

 大学入学と同時に住み始めた、1Kの部屋の前。ドアにもたれた肩には、半ばまで

透けたシャツが張り付いている。髪先から零れる雫が、足下に小さく水溜りを作って

いた。また一つ落ちた水滴を見て、髪を伸ばしたんだな――などと、取りとめもない

ことが頭を過ぎる。肩の高さを通り過ぎて、水に艶めく茶色の髪。右耳の後ろに細く

結われた三つ編みの毛先が、顎を通り過ぎて首筋に絡んでいた。黒いリボンと、どこ

か大人びた口許の色――唇の角度に、彼女の髪が伸びるまでの、その時間の長さを僕

は思う。

 夜。雨を纏う彼女。傘を持つ僕。

 懐かしさを覚えるほど遠くはなくても、きっと、この距離ほどに近くはない。


「雨に降られちゃって、ご覧の有様なの」


 だからさ。入れてくれない?


 濡れそぼった襟を、彼女の指が摘まむ。白く薄い布地が剥がれて、肌に陰が差した

――僅かに、阿るように傾いた首。計算ずくのコケトリーと言うには、多分その仕草

と表情は曖昧で、そして、あまりにも無邪気に過ぎた。もしかすると、彼女は何かを

試そうとしていたのかも知れない。例えば、そのあどけない視線や、今、掻き揚げた

前髪に――何を含ませることができるのか。あるいは、何を含ませずにいられるのか。

そんなことを。

 手の中で金属製の筐体が震えて、ちら、と彼女はそちらを見た。ディスプレイには、

メールの受信を知らせる表示――多分、バイト先からだろう。気にしなくていい、と

だけ告げて、端末をポケットに押し込む。鍵を取り出すのに、いつもより少し時間が

かかった。

 開いたドアを前に、お邪魔します、と彼女が呟く。その声は、何処かで昔の僕達に

繋がっている気がした――繋がっていたらいいと、僕は思っているのだろうか。そう

だとしても、それ以外に彼女がここを訪れる理由がないのだとしたなら、どちらの方

がいいのだろう。そうやって余計なことを考える自分が、やけに可笑しく感じられた。

 玄関の灯りを付けると、改めて彼女の姿がそこに浮かぶ。白いシャツとデニム生地

のクロップドパンツ――足許のサンダルを見て、もう少し気を遣えばいいのに、と僕

は思った。高いヒールと小洒落た細いストラップは、雨の中歩くにはあまりに不向き

で危なっかしい。深く濃い緋色が、爪先をひっそりと飾っていた。

 薄らと水の足跡を残して、彼女が室内に上がる。一年ぶりくらいだね、と漏れた声

に、そんなものかな、と僕は答えた。どうやら、そのまま居室に入るのは気が咎めた

ようだ――キッチンと部屋を繋ぐドアの前で、彼女は室内を覗き込んでいた。その横

を通り抜けた僕に、あんまり変わってない、と感想が聞こえる。どこか安心した風に

聞こえた気がしたけれど、それは僕の身勝手というものだろう。


「この部屋のこと?」クローゼットを開けながら、僕は言った。「それとも、僕が?」

「どっちもかな」


 取り出したタオルを、何枚か彼女に放ってやる。多分、正確には一〇ヶ月かそこら

だろう――最後に会ったのは夏の最中だったが、今はまだやっと梅雨入りを迎えたと

いう頃だ。そんなことを思い返しながら、ついでに奥から紙袋を引っ張り出す。少し

迷ったが、そのまま纏めて彼女に渡してしまうことにした。中身を確認したところで、

正直なところ僕には理解できそうになかったからだ。


「好きに使ってくれていい」

「うん。って、何これ」


 袋から小さな容器を摘まみ出して、彼女が首を傾げる。小さなガラス製のボトルに、

淡く赤みを帯びた液体が半分ほど入っていた。記憶に間違いがなければ、袋の中には

似たような容器が詰まっているはずだ。


「洗顔料かヘアシャンプー。後は化粧品の類だと思うんだけど」

「そうじゃなくて。いや、言ってることは合ってるけど」


 遠回りさせた言葉と一緒に、やや皮肉気に、小さく彼女は唇を歪めた。この状況を

楽しんでいるようで、他方、どこか批難めいたものが混じっている気がしなくもない。

つまりは、少々無神経に過ぎないか、という程度の意味で。


「見るからに女性物ばっかりなのはなんで?」

「多分、想像してる通りなんじゃないかな」


 うわ、と呟いて彼女が眉を顰める。勿論、何を想像したかなんて僕には分かるはず

がなかった。とはいえ、彼女が手に取っている小瓶はどう考えても僕が用意したもの

ではなくて、だとすれば、この部屋にそれらを持ち込んだ僕以外の誰かの存在を疑う

余地は殆どない。問題がそのままヒントになっていて、ついでに回答欄まで埋まって

いるようなものだ。

 指先のボトルと僕の顔を交互に見比べてから、彼女は何度か視線を宙に彷徨わせた。

何を言うべきか、悩んでいたのかも知れない。けれど結局、出て来たのはシンプルな

疑問だった。


「――デリカシーって言葉、知ってる?」


 délikəsi、と滑らかな発音が繰り返される。何かの必要があって覚えたのだろう。

努力家なところや、些細な折にその成果を僕に知らせようとするところは相変わらず

らしい。


「単語の意味と綴りくらいは」と僕は答えた。「ところで、今更って言葉に聞き覚え

は?」

「なるほど」


 聞いたあたしが馬鹿だったか。


 そう零しながら、彼女はさして気にした風もなく使うものを見繕っていった。自分

が勝手に使ったからといって、それこそ今更の話だ。何がどうなる訳でもない――と

でも判断したのだろう。座り込んだ床に、ゆっくりと水が滲んでいく。そうやって、

一度呑み込んでしまえば妙にさばけたところも変わりないらしかった。


「もういいけど――これ、一人分じゃないよね」


 蓋を開けて中の液体を見れば、大体は何が入っているか分かるらしい。大したもの

だ、と感心していた僕に、彼女がまた問い掛けた。なるほど、と僕は思う。これまで

知らなかっただけで、僕は随分と間抜けだったようだ。中身が分かるなら、それ以外

のことにだって気付いて不思議はない。床に並べられたボトルの個数は、既に二桁に

達していた。


「ノーコメント。黙秘権だ」

「そう。もとは何処に置いてあったの?」


 淡々と、無感動な反応。薄い紅色にコートされた爪が、ボトルを左右に選り分けて

いく。どうせ必要になるだろう、と棚からバスタオルを降ろした僕に、洗面所とか?

と質問は続いた。


「サイドボードか、洗面所の隅が多かった気はするけど」

「キミの眼につくように?」


 はぐらかすことを諦めて、少しだけ記憶をたどる――多分、逆だろう。思い返して

みれば、何となく控え目な位置に残されていたものが多かった気がする。それもただ

置き忘れたというよりは、こっそり仕舞い込んだ、という風に。

 そうでもなかったかな、と答えた僕に、さもありなん、とでもいった様子で彼女は

頷いて見せた。その表情に混ざっていたのは、小さな呆れと諦めだろうか。


 置いていった子もかわいそうに、と彼女は溜息を吐いた。


「まぁ、マーキングなんてそんなものだろうけどさ」

「マーキング?」

「見れば分かるでしょ。忘れ物とでも思ってたの?」


 必要な分は取り終えたのだろう。紙袋の中に小瓶が戻されていく。彼女の手許には

色と形、大きさもばらばらな容器が五つほど残っていた。


「キミに見えないように隠してあったなら、わざとじゃなきゃおかしい。牽制みたい

なものだよ――この人は私のものですって、見つけるかも知れない他の子に対して」


 まぁ、半分は悪戯と自己満足。もう半分は乙女心かな。どことなく楽しそうに――

中途半端な幼さを愛でるような声でそう言って、彼女は袋を閉じた。懐かしいものを

撫でる手つきと、その優しさに、多分、それは少し似ていた。


「それをキミは、いちいち見つけだして片付けちゃったわけだ」


 そうやって続けられた言葉は、もしかしたら非難の色を帯びていたのかも知れない。

けれど悪戯であれ自己満足であれ、僕がそれを理解することは出来そうになかったし、

彼女が笑う理由にも検討は付かなかった。


「もの扱いされるのは好みじゃない」

「そういう問題じゃないよ」


 立ち上がる彼女の爪先に、また水滴が落ちる。冷えた白い肌と艶めいたルージュ。

返すね、とからかうように唇が動いた。

 紙袋を差し出す彼女の手の中で、がちゃり、と硝子が音を立てる。その音に潜む、

二分の一の乙女心――けれどそう表現した本人にしては、些か扱いが乱雑にも思えた。

視えないところでシェイクされる、乳白色の液体。彼らがその役割を果たす日は来る

のだろうか。あるいは今日がその時だったとも言えなくはないし、それ以外の目的が

あったとも思えない。けれど、ただそれだけのための隠し事だった、とも思えそうに

なかった。


「気に入らなかったなら、無理に使わなくてもいい」

「そうだね」


 でも、そういう問題でもない。


 じゃあ、どういう問題なんだろう。そう聞き返すことの愚かしさだけは、何となく

想像が付いた。些細な、冗談めかした遊びにほの溶かした感情。それはきっと、僕達

が無碍にしていいものじゃなかった。

 だとしても、他に何ができるだろう。そんなことを僕は思う。

 何かする理由も、必要な動機も、僕達はとっくに手放してしまっていた。口実すら、

すんなりとは出て来そうにない。それこそ、デリカシーと呼ばれるものなのかも知れ

なかった。言葉にできないものは、言葉にしない方がいい。


「――ドライヤーの場所は変わってない」

「分かった」余計な追及を諦めた僕に、あっさりと彼女は頷く。「じゃあ、シャワー

借りるから」


 返って来た紙袋を、また、クローゼットの奥に戻す。そう言えば、以前はどうして

いたのだろう。去年の夏も、その前も、彼女にこれを渡した覚えはない。ふと脳裏を

掠めた疑問を、僕はそのまま押し流そうとした。ただ、変化があっただけのことだ。

些末で当たり前の、どこにでもある時間が。


「この際だから言っとくけど」


 そんな思考を遮るように、彼女の声が僕を捉える。見ると、ドアの向こうで彼女は

こちらを振り返っていた。どことなく不満そうで、拗ねたような眼差しが、見返した

僕のそれと重なる。


「キミをもの扱いされるのは、あたしだって好みじゃない」


 言ってる意味、分かる?


 彼女の眼は僕を見ていた。見ようとしていたのは、もっと奥の何かだった。僕は、

彼女の眼を見ていた。その奥に、何かがあることだけは分かっていた。

 彼女の言葉が伝えるもの。その行先を僕は考える。宛先も宛名も、内容もない手紙

みたいに、それは何処かに届いていた。そのどれか一つだけでも分かったなら、何か

を答えられたのかも知れない。けれど、それを知ろうとすることは、酷く慎みのない

行為だとも思えた。

 雨に濡れて、そのままだと風邪を引くから。始めはそんな理由だった筈だ。

 けれど、彼女の髪が伸びて。僕の背が高くなって。

 もう、子供じゃなくて。

 そんなことを考えた。


「ノーコメント」


 だけど、何も思わないわけじゃない。


 ふと、思い出す光景。何かのきっかけに、脳裏をよぎる言葉。そんなものはきっと

誰にでもあって、だから、僕のこれもそうなのだろう。


 微かに喉を震わせた声は、雨とシャワーの音に紛れて消えていった。




      ***




 激しさを増すばかりの雨粒の音に、連れてきて正解だった、と息を衝いて――同時

に酷く不自然で、後ろ暗い安堵を感じたことを覚えている。両頬から爪先まで、全身

が浸かったようにずぶ濡れになった彼女は、一言も発さずに僕の後ろを歩いていた。

繋いだ手には冷え切った感触。薄黒い雲の向こうで太陽が沈む頃、水まみれになった

彼女がいて――そして全く衝動的に、僕はその手を掴んだ。

 何を思って、彼女は僕に手を引かれていたのだろう。振り返ると、その度に濡れた

瞳が僕を捉える。壊れてしまった人形みたいに、弱々しく握り返す小さな手。けれど

彼女は、その手を振り払おうとはしなかった。押し付けた制服のジャケットと、殆ど

肌色に透けたブラウス。一体、どれだけの雨に打たれればこんなことになるのか――

あるいはそれ以上に、何故、こんなになるまで雨に身体を曝していたのか。問い質す

べきことは幾らでもあった筈だと、今は思う。多分、家の鍵を開ける前に。

 高校生になったばかりの僕にとって、彼女はただの知人――三十九人いる同級生の

一人でしかなかった。知り合ったのはもう少し古かったけれど、それを含めても何ら

特別な繋がりは見出せない、そんな程度の関係性。それで、間違っていなかったはず

だ。あの雨の日まで――雨の中で、君を見つけるまで。

 これは慈善行為だ。説明どころか、口実にもならない言葉を胸中に唱えた。バケツ

どころか、バスタブをひっくり返したような大雨の中だ。迷子の仔犬が雨の中震えて

いたら、誰だって傘くらい差しかけるものだろう。そんな風に。

 だって、そうでなかったなら。僕にはこうする理由がない。


「優しさ?」


 薄い暗闇に響いたのは、押し殺した声音。開いた扉の、中と外――なのに、吐息が

触れる距離。服に滲み込んだ雨粒が伝う近さに、彼女はいた。くらくらと甘い、眩暈

にも似た香りに視界が揺れる。


「優しさなんて、なくたっていい」


 あたしはそれでもいい、と。俯いた小さな表情は、何かに堪えていたのだろうか。

君を見つけたその時は、雨に濡れて分からなかったけれど。


 あたしは、嘘でもいい、と。そんな声で、君が囁くだなんて知らなかった。


 あの雨の中で、彼女は何に迷っていたのだろう。囁いた声は何を隠して、何を伝え

ようとしたのだろう。僕は分からなかったし、きっとこれからも分からない。けれど

彼女自身も、伝わることなんて望んではいなかったんじゃないだろうか。そんなこと

を考えるのは、僕の身勝手なのかも知れないけれど。

 答える言葉に迷ったのは、どれくらいの間だっただろう。彼女は僕を見上げ、ふと

口許に笑みを浮かべた。見透かして、怯えるように。そんな表情で君が笑うだなんて、

僕は知らなかった。


「でも――もし、優しさだって言うなら」


 次に逢う時も。キミは、同じ優しさをくれるの?


 三つ編みに伸びた指が、ゆっくりとリボンを解く。するりと髪先を抜けていく布地

の黒さを、今でも僕は覚えていた。扉が閉まる瞬間と、彼女が、最後の一歩を進んだ

その時を。

 濡れた身体が冷たく熱を帯びて、けれどあんなにも細く、頼りなく揺れるなんて。

抱きしめるその時まで、そんな感情は知らなかった。


 知らなかったんだ。




      ***




 僕は、僕と彼女の距離を測る。

 僕と彼女を隔てる時間や――触れあうはずもない、心の隙間を思い描く。




 小さな水滴がなぞり、やがて大きな粒となって流れて行く。雨が止む気配は一向に

なかった。けれど仮に雨が止んだとして、僕は彼女を何処かに送り届けるのだろうか。

あるいはそもそも、この夜の天候になど大した意味もないのか。どちらも意味のない

問い掛けに思えて、ただ、雨の気配に耳を澄ます。


「キミ、教員志望だっけ?」


 机に広げた参考書に、目敏く気付いたのだろう。シャワーを浴び終えた彼女が、髪

を拭きながらそんなこと尋ねてきた――何も無いよりは良い、と貸したスウェットを

着ているが、明らかにサイズが合っていない。袖と裾とを相当に捲り上げても、服に

着られた印象は覆せそうになかった。足許に転がったドライヤーは、まだ暫く出番を

待たされるらしい。


「この夏、採用試験を受ける」

「中学? 高校?」

「高校の数学。先週、願書を出した」


 ふうん、と彼女が零す。取り立てて興味もない、という風を装ったのか、あるいは、

何か不満を隠したようにも思える呟きだった。それを横目に、携帯端末からメールを

送信する――先ほど受信した、バイト先からの連絡への返信だ。丁度、今日を最後に

暫く休みを取ったところだった。採用試験と、秋から始まる教育実習のため。引継ぎ

の確認も、後数回メールをやり取りすれば終わるだろう。

 キッチンから、水とグラスを用意して部屋に戻る。一息で一杯目を飲み干した彼女

に、もう一杯注いでやった。入れ替わるように、今度は彼女が部屋を出て行く――程

なく帰って来た手には、さっきまで着ていた服。軽く絞ったのか、流石に水が落ちる

ようなことはなくなっていた。


 これ。


 僕の足許に座り込んで、彼女はこちらにタオルを差し出した。受け取りながら、僕

も彼女の後ろに腰を下ろす――湿り気の残った髪を掴むと、しなりと柔らかな感触。

甘い香りがする、と僕が言うと、ジャスミンかな、と声が返って来た。

 髪の毛のことは、取り敢えず僕に任せるらしい。ドライヤーを手に取り、彼女は服

に温風を当て始めた。一〇分くらいあれば、大体は乾くだろうか。気長に付き合おう

と決めて、一房ずつ髪をタオルに挟んで行く。正しい拭き方なんて考えたこともない

が、多分、彼女が何も言わないのだからこれで良いのだろう。


「――先生になったら、ここも引っ越すの?」


 彼女がデニムを裏返し、シャツを手で伸ばしていく。ぽつりと呟いたのは、作業も

半ばを過ぎようという頃だった。

 ファンの音に紛らせるような、微妙なニュアンス。どうかな、と僕は言葉を濁した

――問いにも答にも残る曖昧さは、疚しさの証拠だったのかも知れない。咎められる

べきことではなかったとしても、何らかの後ろめたさを共にしているとすれば、それ

はやはり一種の共犯関係に違いなかった。憐情に似た、有り触れた予定調和。未必の

故意、と言い逃れるにはあからさま過ぎる。


「採用されるかは分からない」と僕は言った。「されたとしても、配属先が決まるの

はもっと先だ」

「そう」


 気のない声で――少なくともそう装って――答えて、何か面倒だね、と彼女の背中

は息を吐いた。その向こうでは、ニュースを終えたテレビが次の番組に映る。何処に

でもありそうなトーク番組だった。


「でも、大人になるって、きっとそういうことなんだろうね」

「そうかな」


 そうだよ、と言った声を他所に、オープニングが流れて行く。そこそこ大物の――

そのはずだが、彼の本職を僕は知らない――芸能人がゲストを招いて世間話をする、

何の変哲もない三〇分。今日のゲストは彼女だった。

 チャンネルを変えるべきだろうか、と僕は少し迷う。それ以前に、そもそも電源を

入れるべきじゃなかった――けれど迷ったということはもう手遅れだということで、

生憎なことに僕は時間を巻き戻す魔法なんて知らなかった。

 画面の中では、見知った顔が来週封切の映画について話している。始めから宣伝の

ための出演なのだろう。さして気にした風もなく、眼の前の彼女はパンツの渇き具合

を確かめていた。

 教えられてばかりな気がする、と僕は言った。正確には思い知らされてばかりなの

だろうが、それを言葉にすることはできなかった。


「何を?」

「大人も何も、君はもうとっくに社会人だ」

「あぁ」と彼女が笑う。「改めて言われると、なんか変だけどね」


 こちら側と違ってテレビに映る彼女は隙のない化粧をして、服装も小綺麗に纏めて

いた。それでも、誰がどう見たって同じ彼女だ。そう分かっていても、彼女の表情が

どこか作り物めいて感じられるのは――多分、僕の身勝手な感傷に違いない。

 売れっ子というわけではないけれど、見る眼のある人はちゃんと知っている実力派

の若い女優。それが一五歳になる頃の彼女で、長い間僕はそのことを知らずにいた。

小学校からの同級生で、その頃から互いを知っていたにも関わらずだ――実際には、

その前から彼女は著名な劇団でキャリアを積んでいるし、商業的、という意味で本格

的な初舞台は一〇歳になる前だった。つまり、僕が知らない彼女の方がずっと多いと

いうことで、それを嘆くのは愚かしい。僕だけが知っている彼女なんて、きっと何処

にもいないのだろうし、それが当然と思えるくらいの分別はあるつもりだった。

 ある著名な監督が彼女を見定めて、抜擢と言える起用をしたのは中学校を卒業する

直前。次の夏には作品がヒットして、世間は彼女を知るようになった。多分、それら

は偶然ではないのだろう。僕と彼女が、一六歳になる夏――真夜中のテレビに映った

彼女は雨に濡れてなどいなかったし、制服だって着ていなかった。


「こんなものじゃないかな」

「ありがと」


 一通り髪を拭い終えた頃、彼女は僕を振り返った。また幾らかの時が過ぎて、僕の

知らない場所で彼女が身に付けた口調と表情――けれどそんな出来事を他所に、彼女

はこうしてこの場所を訪れ続けている。その身を雨に濡らして、夜を連れて。雨雲と

雨粒の(あわい)――そんなものが在るとしたら、彼女は、その隙間に僕を滑り込ませた

のかも知れない。引かれて行く、眼には見えない線を拒むように。彼女を呑み込んで

行く現実とか、そんな風に呼ばれるものを振り切るみたいに。

 それは浅はかで、ささやかな幻想なのかも知れなかった。現実は二つに分かれたり

しないし、雨粒と雨雲にも境はない。それでも僕は、彼女の望みを叶えたいと思った

――彼女を守る傘にはなれなくても、濡れた髪を拭くタオルくらいになら、なれるの

かも知れない。そんな風に思っていたかった。単なる自己満足だとは分かっていたし、

きっと何の償いにもなりはしないけれど。


 あたしは、嘘でもいい。


 そう呟いたあの日、本当は、彼女は何を望んでいたのだろう。

 あの日、雨に頬を濡らしながら。その水滴の裏側で、彼女は泣いていたのかも知れ

ない。そんなことを思う。だとしたら僕は、どんな言葉を掛ければよかったのだろう。

少年や少女と呼ばれる時期はもう過ぎていたけれど、それでもあの夜、僕達はきっと

まだ子供だった。今よりもずっと細かった彼女は、もしかしたら、ただ夜と雨の音に

酔わされていただけだったのかも知れない。

 ただ、寂しくて。どうしようもないくらいにさりげなく、雨と夜を受け容れただけ

なのかも知れなかった。


「何考えてるの?」


 届いた声に、空想が止まる――彼女の瞳が、こちらを覗き込もうとしていた。互い

に腰を下ろしたまま、手を伸ばすこともなく唇が届く距離。それが近いのか遠いのか

は分からないけれど、触れた感触を僕達は知っている。


「君が、初めて部屋に来た時のこと」

「――何考えてんの」


 くすぐったそうな声で、彼女は非難の言葉を上げた。けれど、じとり、と睨もうと

した顔つきには、有態に言えば迫力が足りていなかった。軽く受け流して、別に、と

呟きを返す。


「ただ、変わらないな、と思っただけだよ」

「キミは、変わりたかったの?」

 どうだろう、と僕は首を捻った。子供の時間が過ぎて、それでも変わらない何か―

―季節が変わっても、同じ何かを共有できるような。けれど繰り返す夜ではなくて、

次の朝を迎えるような。そんな二人に、憬れたのは嘘じゃない。なのに、嘘じゃない

だけだった。一体それで僕は、何が変わらないと思っていたのだろう。


 ――あたし。来年になったら、結婚するよ。

 ごく当たり前みたいに彼女は言った。その何がおかしいのか、僕には分からない。


 僕は、僕と彼女の距離を測る。

 僕と彼女を隔てる時間や――触れ合う筈もない、心の隙間を思い描く。

 彼女と彼女を取り巻くもの。その合間に僕がいるなら、僕と彼女の隙間には、一体

何が残るだろう。そんな空想は、いつだって上手くいかない。絶え間なく滲み込んだ

雨音に紛れて、言葉は君に伝わらない。そうでなくとも、僕らの想いなんてとっくに

混ざってしまっていたのに。


「あたしは変わったかな?」


 そう呟く彼女の、何を知っていると言えるだろう。

 髪が長くて、背が高くて、たまに掛ける縁なしの眼鏡がよく似合う。そんな、少し

だけ頑固な女の子だった。紅茶と仔犬とマリーゴールドが大好きで、煙草と人混みと、

自転車の運転が苦手な小学校からの同級生。そんなとりとめもないことを、僕は沢山

知っていて、けれど、どの言葉も彼女ではない。そんな気がした。

 何度となくこの部屋を訪れて、それなのに此処に彼女のものは一つもない。きっと

それが答だ。たった半分の心を潜めた、他愛ない悪戯。そんなものすら残らないよう

に、僕達は臆病な距離を保っていた。


「君は変わりたかった?」

「分かんないな」


 でも、何だかそうじゃないみたい。

 澱みなく動いた彼女の指が、乾いたばかりの髪を編み上げる。よし、と呟いた彼女

は、少し腰をずらした――僕に背を預けた彼女の肩が、ちょうど頭一つ分、僕よりも

低い場所で胸に当たる。触れ合う距離と、伝わる熱。きっとこれまでも、互いの温度

くらいしか交わせるものなど僕らには無かった。

 それでも彼女は――何度も、何かを伝えようと。そう望んでくれていたのかも知れ

ない。そんなことを思った。


「おめでとう、って言ってくれる?」


 君が望むならその通りに。

 口を衝いた言葉を、そのままに僕は吐き出した。それが疑う余地のない本心だと、

何よりも僕がそう思っていたかった、

 ありがとう、と彼女の声が笑う。


「でも、そんなの嫌だって言ってもいい?」

「いいって答えたらそう言うのか?」

「そう言うよ。ってあたしが決めたら許してくれるの?」


 分かった。何を許せばいい?


 そうやって、言葉にすることができたなら、何かが違っていたのだろうか。けれど

僕にはその一言すらも言えそうになくて、それで、答には十分に過ぎた。たた空回る

感情を、僕達は慎重に避け続けた。不用意で無防備なものを遠ざけた。何を失くして

いくのか、そんなことにさえ気付かずに。

 本当は、ただそれだけを伝えなくちゃならなかったのに。


「あたしはね。優しさなんて、嘘でいいの」


 そう思ってたし、今だって思ってる。


 それは確かに、終わりを告げるための台詞だった筈だ。けれど何が終焉を迎えたの

か、それすらも僕には理解できない。たった今、眼の前で終わった筈のそれに、名前

を付けることさえ僕達はしてこなかった。


「それ以外の何かも、あるんじゃないかって。そんなのも素敵だなって思えたから」


 恋。それとも愛。何かそんなものを知る前に、僕達は始まってしまっていた。いつ

かはこの感情に、そんなラベルを付ける日が来たのかも知れない――けれどそれは、

きっとこんな日ではなかったはずで。だとしてもそれは、もう終わってしまったこと

で。そしてやっぱり、巻き戻す魔法なんて、僕は知らない。


「だけど、キミが、優しくて――」


 優しいだけでも、あたしは、キミが。


 その先の言葉を、彼女は呑み込んだ――そうでないなら、僕も、彼女もここにいる

ことはできなかった。ただその指が伸びて、僕の袖口を弱く掴む。そんな風にして、

ひっそりと、始まりも知らずに終わる今日。

 そんなものなのかな、と思って、そんなものなんだろうな、と思った。


 同じ優しさなんて、初めから何処にも無くて。

 きっと、ただそれだけのことだった。




      ***




 彼女は僕が知っていたよりずっと多くの仕事をこなしていて、当然のようにクラス

で彼女を見かける機会は減っていった。もとより教室で言葉を交わすような間柄でも

なかったけれど、彼女が忙しくなってからはそれ以上に他人じみた関係になってこと

も確かだ。実際、僕達は他人以外の何ものでもなかったけれど、多分、それは都合の

良いことでもあった――少なくとも、僕達の間柄を疑おうなんて輩は、何処にも現れ

なかったからた。


「あたしも大学、行くことにすればよかったな」


 そんなことを彼女が言ったのは、高校最後の夏が過ぎる頃、台風が通り過ぎた夜の

ことだ。ぽつりと呟かれた言葉を、僕の耳は無神経に聞き咎めていた。


「どうして?」


「どうしてって――まぁ、卒業できるかは分からないけどさ。入学だけなら、簡単に

させてくれるみたいだし」


 ベッドに腰掛けた彼女は、困ったように笑みを浮かべていた。濡れた髪と唇。あの

日、彼女は偶然雨に濡れていただけで、僕は手を差し伸べたに過ぎない。そんな言葉

はもうとっくに意味を持たなくなっていて、それでも今と同じように、僕達はそれに

気付かない振りを続けていた。


「客寄せの広告塔扱いで良いなら、悪い話じゃなかったわけだ」

「まぁ、そういうことだね」


 そういうことにしとこっか。


 僕達が具体的な何かになってしまえば、嘘を吐くことはその分だけ難しくなる――

けれど何がどう嘘になっているのかなんて、誰になら分かると言うのだろう。嘘でも

いい、と言った彼女の言葉に、僕は騙されようとしていたのかも知れなかった。

 だとすれば、騙されているのか、それとも騙しているのか――それすら定かでない

僕の、何処が偽りなのかさえ分からない嘘。そんな馬鹿げたものに彼女もまた騙され

ようとしていて。何が本当かなんて、分かるはずもなくなっていた。

 だから、もしかしたら。

 僕と彼女は、ただ恋をしただけかも知れないのに。


「あたしは別に、こんなところまで来たかったわけじゃないんだけどな」


 有名になりたかったわけでも、テレビに映りたかったわけでもなくて。

 彼女の声を、僕は聞こえないふりで誤魔化していた。そうだったとしても、彼女が

大学に進学することはなかったし、僕はもうそのことを知っている。離れたわけでは

ないとしても、近づくことは確かにできなくなっていたのだろう。


 ねぇ。聞こえる?


 彼女と僕を包むように、雨音が部屋を埋める。僕達にとって、二人でいるとはそう

いうことだった。そうやって――眠りに落ちる狭間、意識の片隅で彼女の声を聞く。

そんな風だった。


「聞こえてなくてもいいけど。でも、キミに伝えておきたいんだ」


 あの日の夜。雨が降る帰り道で、キミがあたしを見つけてくれた時。

 本当は、あたしがキミを待ってたんだって知ってた?

 雨の音で隠せたけど、ずっと心臓が鳴りやまなくて。

 優しさなのって、聞いた声が震えたこと。


「ずるいよね。こんな気持ちも知らないでさ」


 でも。知らないでいてね。

 僕の手に弱く絡んだ感触は、きっと彼女の指だった。もしも握り返すことができて

いたなら、やはり何か違ってはいたのだろう。けれど僕は握り返さなかったし、もう

握り返すこともない。それだけは分かっていた。

 それが悲しいのだとしても、悲しまなければ問題はない。そんな風に思っていた。


「キミの傍にいて、触れていたいだけなんだ。そう言ったら。信じてくれる?」


 雨が強かったから。そんな口実がないと、逢いに来ることもできないけど。

 彼女の声が詰まった時、僕の意識はとっくに途切れていて。だからきっと、それが

答なのだろう。頬に触れた熱が濡れていたのは――震えていたのは何故だったのか。

それすらも分からない。それは僕の我侭で、それを許したのは、きっと、彼女の我侭

だった。だから、そう思うことを僕達は選んだ。

 もうそんなものには届かないって、分かっていたけれど。




      ***




 気が付けば、彼女の姿はテレビの中から消えていた。

 どれくらい、そうしていたのか――時間の感覚はとうに失せて、けれど漂っていた

はずの沈黙は不快ではなかった。彼女から伝わる微熱がゆっくりと霧散していくよう

な、そんな感覚。もたれかかる重さが心地よかった。


「――簡単じゃないんだね」


 ようやくぽつりと零された言葉は、何に向けられたものだったのだろう。


「あたしは、キミじゃなくてもよかったのかな?」


 その問いには、きっと、大した意味はない。けれど、必要なものではあったのかも

知れなかった。例えば今、彼女が僕の服を握りしめたのと同じくらいに。僕の腕が、

彼女の髪を撫ぜるのと変わらないほどに。


「何だか、嘘みたいじゃない?」

「そう言ったのは君だろう」


 きっと君は、ただ寂しかっただけなんだ。見知らぬ世界で生きていくその不安を、

雨に流そうとしただけ。それを、何かと間違えただけなんだ。そうでなければ、あの

夜の僕達があまりにも憐れ過ぎる。だから、そうでなければいけなかった。


「キミはどう? あたしじゃないと駄目だったの?」


 その問い掛けに、僕は、横に首を振る。


 けれど、そうだ、と叫んで――あの夜の僕らを、そう否定して欲しいんだ。優しさ

なんてそんな綺麗で、曖昧で、耳ざわりのいい言葉で飾るべきじゃなかった。そんな

つもりで、君に触れようとしたわけじゃない。

 雨の中で君を見た瞬間、濡れた眸に焦がれて。ただ一人君なんだと。それなのに、

傷つけることが――傷つくことがただ、怖かっただけなんだ。

 君じゃなくてもよかったのかも知れない。でも、君を望んだのは嘘じゃなくて。

 嘘でもよかったもの。その何一つとして嘘にしてしまいたくはないんだ。

 なのに僕達は、ずっと、これが嘘だと言い聞かせて。だから、ありがとう、と彼女

は僕の手を離した。肩越しに僕を見上げる眸が濡れて、やっぱり、綺麗だと僕は思う。

小さな指先が髪に伸びて、するりと、結んだばかりの三つ編みを解いた。


「でも、あたしは――キミだったらよかった」


 彼女の唇が、咬みつくように僕に届く。


「キミだけでよかった。他のものなんて全部要らないって――そう言えばよかった」


 彼女の両腕が、僕の頬を包む。それが言えなかったのは、僕の方だ。


 抱き締められた、その温もりに眼を伏せる――もう恋とも愛とも呼べないけれど、

これは、きっとそんな何かだった。たったそれだけを思うことが、この一瞬だけでも、

せめて許されて欲しかった。

 指と吐息と、唇が触れる。


「優しさなんていらないって。だから、キミを頂戴って」


 あたしを選んでって。言えばよかった。


 その言葉を口にした彼女の心も、きっと僕には分からない。それでももう、言葉が

残っていないことは分かっていた。

 二度とない傷とその痛みだけを、彼女は僕に望んで。

 その痛みだけを、僕は。

 彼女に。




***




 たとえば、雨が月を隠すたびに、そっと傷口が疼くとしても。

 それを哀しむ資格が、僕らには無かったとしても。

 絡めてこの指が解けて、二度と結ばれることがないように。


 君が幸せを見つけてこの、歪な時を忘れてしまえるように。

 だけどそれまでは消えないように。傷痕を君に。


 だからせめて、最後の言葉をこの夜に溶かそう。

 変わらない雨音と白み始めた明るさの中で、そんなことを思った。



 この雨と、夜が明けたら。君はもういないから。



 どうか、何一つ嘘にならないまま。

 あの夜の、泣き顔の君に届くといい。


                                    〈了〉


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