ヒロト、0歳
※こちらはレミリア視点の番外編になります。
本編の三章終わりまで進んでから、よろしければご覧ください。
診療所から家に帰ることを先生が許してくれて、私はリカルドと、生まれたばかりの息子のヒロトと一緒に家に帰った。
家に帰ると、私が留守の間に家のことをお願いできるように、ギルドから斡旋してもらったメイドさんが待っていてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」
「ええ、留守の間のことを引き受けてくれて、本当にありがとう」
「奥様こそ、お産のほう大変お疲れ様でした。ギルドからは、延長するかどうかは、レミリア様からご判断をいただくようにと言いつけられています」
「子供が少し大きくなるまでは、私が家のことを全部やろうと思ってるの。次にお手伝いさんをお願いするのは、二年くらい先になると思うわ」
「かしこまりました。それでは、ギルドにはそのようにお伝えいたします。短い間でしたが、大変お世話になりました」
「こちらこそ。すごく助かったから何かお礼をしたいんだが、ギルドを通して君のところに届けてもらうことはできるのか?」
リカルドは爽やかに笑って言う。この人は昔からこうで、何度言っても治らないのがたまにキズだった。
私と会った晩餐会でも、彼は私の友達から人気があって、結婚して首都に移り住みたいなんてことまで想像している娘もいるくらいだった。私はその中のひとりを、彼に紹介して――そんな、懐かしい馴れ初めを思いだしてしまう。
私と同い年のメイドさんはやっぱりリカルドの笑顔を見て、思うところがあるみたいだった。身体が大きくて見るからに無骨そうなのに、笑うときは少年みたい。
「い、いえ。私はこの家でお勤めさせていただいただけで、十分なお給金をいただいておりますから」
「そうか? 俺は、給料以上の仕事をしてもらったと思ってるけど……」
「私と夫の二人で何か選んで、送らせてもらうわね。気に入ったら、受け取ってちょうだい」
「……はい、ありがとうございます。奥様、旦那さまと赤ちゃんと、健やかにお過ごしください」
メイドさんはそう言ってエプロンを取り、鞄にしまうと、私たちに頭を下げて歩いていった。
「なかなかできた娘さんだったな……って、レミリア、俺は別に何もしてないぞ?」
「本当かしら……と言いたいところだけど。お見舞いに来てくれたとき、エレナさんが言ってたわ。あなた、飲みに行っても決まった時間に帰るんですってね」
「っ……ま、まあそれは当たり前のことだからな。そうか、前にエレナさんに酒場で会ったな……」
「奥さん同士のつながりは怖いのよ。あなたがもし浮気してても、絶対にばれると思った方がいいわね」
「はは、それは怖いな。だが俺より、ハインツの方がよっぽど……ああいや、何でもない」
彼はごまかしているけど、パドゥール紹介のエレナさんからハインツさんが遊び人だっていうことはよく聞かされていた。よく盛り場や酒場に顔を出しているとのことで、エレナさんもたまに付き合いで飲みに行き、一度声をかけられたことがあるらしい。
私は社交場というものは経験しているけど、お酒を飲んで騒いだりするのはあまり好きじゃなくて、家で縫い物の練習をしている方が好きだった。近所のサラサさんも物静かな人で、私とは趣味が合っている。
サラサさんにはしばらく会っていないけど、私と同じように赤ちゃんが生まれたっていう噂を聞いた。サラサさんは助産婦さんに来てもらって、うちで赤ちゃんを産むことにしたのかも。赤ちゃんがいるのが本当なら、できればうちのヒロトと友達になってくれると嬉しいんだけど……。
「ねえあなた、最近サラサさんを見た?」
「ああ、見たぞ。女の赤ちゃんが生まれたみたいで、教会に通ってたな。ちょっと前に見かけたときはお腹が目立たなかったが、そういう人もいるんだな」
「そういうことなのかしらね。私はもう、腰が痛くて大変だったわ。赤ちゃんは可愛いから、もう気にならないけど」
「そうか……良かった。まだ痛かったら言ってくれ、さするくらいはできるからな」
「ありがとう。あなたって本当に優しいわね」
「そ、そういう言い方されると、何か含みがあるように感じるんだが……」
「そう? 私は、思ったことを言ってるだけよ」
「うーむ……しかしヒロトはおとなしいな。すやすやとよく寝てる」
リカルドがヒロトを見る目が優しくて、私は思う。ヒロトもこの人に似てくれたら、きっと優しい子になる。
私はリカルドの優しさに何度も助けられて、今ここにいる。ヒロトも誰かにとって、必要な人になってくれたら……。
「今のところはレミリアに似てるな。男の子は母親に似るっていうが、そのとおりだ」
「じゃあ、大きくなったら徐々にあなたみたいになっていくのね。すごく頼もしそう」
「ははは、俺くらいになったら、レミリアも担ぎあげられそうだな。いざというときには、俺の代わりに木こりを継いでもらうか」
「うーん……この子には、木こりもいいけど、やりたいことをやって欲しいわね。あなたの仕事のことを、悪く言ってるわけじゃないのよ」
「やりたいことか。俺の息子なら、やっぱり……」
「……この子が騎士団に入りたいって言ったら、あなたはどうする?」
リカルドが騎士団を辞めたこと。事情の全ては聞いていないけれど、まだ私は、リカルドにはやり残したことがあったんじゃないか、という思いがあった。
「強く育つのなら、騎士団に入るのも理想の選択ではあると思うがな。でもまあ、それが全てじゃない。世界は広いし、選択肢は無限にある。今から俺たちが焦ることはないさ」
そう言ってリカルドは、ヒロトの頭に手をかざす。まだ触れることに遠慮があるみたいだから、私はリカルドに微笑みかけて、抱っこする役を代わってもらった。
「そこをちゃんと持って支えてあげてね……そう……ふふっ、なかなかさまになってるわ」
「お、おう……一度抱かせてもらったが、やはり緊張するな……おおっ、ヒロトが起きちゃったぞ」
「…………」
「ごめんねヒロト、お父さん、まだ抱っこに慣れてなくて」
「お、おう、すまないな。だが、父さんもじきに上手になるからな」
「…………」
ヒロトはまだ自分ではあまり動けないけれど、揺りかごから出されて私の横で寝ているときも、そっぽを向いていることが多かった。おっぱいをあげようとすると、恥ずかしそうにしながらこっちを向いて、ちゅうちゅうと一生懸命吸ってくれる。
(この子におっぱいをあげるとき、何だかドキドキするのよね……まだ慣れてないからかしら)
「おっ、レミリア、今俺の方をちらっと一瞬だけ見てくれたぞ。目がぱっちりしてて、女の子みたいだな」
「そんなこと言ったら、ヒロトもすねちゃうわよ? 紛れもなく男の子なんだから」
私がヒロトを受け取ると、お母さんだからなついてくれるということもなくて、やっぱりおっぱいの時間以外は、こっちをなかなか向いてくれない。
でも背中を撫でてあやしてあげると、ヒロトはちょっとだけ嬉しそうにして、私に小さな手を伸ばしてくる。
私の手で包み込んであげられる小さな手。その手をきゅっと握ると、リカルドが上から手を重ねてきた。
彼の笑顔を見て、一緒にヒロトを見て、とても胸が温かくなる。
(お母さま……私、こんなに幸せになれた。ごめんなさい、私、沢山心配かけて……)
◆◇◆
子供のころから私は身体が強くなくて、成長してもそれはあまり変わることがなかった。日常生活に支障はないけれど、ときどきどうしても体調を崩してしまう。
ヒロトが生まれるまでも何度か診療所に運び込まれて、安静にするようにと言われて、お産の日を迎えた。
リカルドに、私と赤ちゃんのどちらかを取らないといけないとしたら、その時は赤ちゃんを助けて欲しい。そんなふうにお願いしたこともあった。リカルドは、そんな馬鹿なことを言うな、絶対大丈夫だと励ましてくれた。
ヒロトが無事に生まれてくれて、私も産後の肥立ちが思ったよりも良好だと言われて、こうして家に戻ってくることができた。
リカルドを仕事に送り出したあと、彼がモニカのお父さんに頼んで作ってもらった新しい揺りかごの中で、私の可愛い息子が、手を握ったり開いたり、身じろぎをしたりするのを、私はいつまでも飽きずに見ていた。
(この子が大きくなるまで、私も頑張らなきゃ……)
あまり長く生きられないと言われたこともあった。私が元気になるまでずっと傍にいてくれたのは、お母さまだった。
お母さまは、そのために命をすり減らしてしまったのかもしれない。私がまだ十歳のときに、お母さまは病気でベッドから離れられなくなり、そのままいなくなってしまった。
まだ、あの時のことに現実感が持てない。お母さまがもういないとお父さまに言われて、抱きしめられても、私は泣かなかった。お父さまは、泣いていたのに。
リカルドには、お父さまと同じ思いはさせたくない。ヒロトの子供が生まれたら、リカルドと一緒に、おじいちゃんとおばあちゃんと呼ばれたいし、子供を持つ親の先輩として、いろんなことを教えてあげたい。
「……ばぶー」
「あ……ヒロト、しゃべれるようになったねぇ。えらいでちゅねー」
私が昔のことを思い出していたから、心配させてしまったのかもしれない。赤ちゃんでも、大人の表情を見て何かを感じることはあると思う。
私はいつも笑っていないといけない、と思う。いつもあまりこちらを見てくれないヒロトが、こっちをじっと見てくれる。それは、心配してくれているのかもしれないと思ったから。
(なんて……まだ分からないわよね。お母さんね、今はすっごく元気よ)
「……うー、うー」
「どうしたの? ヒロト、どこか具合でも……あら?」
ヒロトの顔が少し赤くなっているように見える。この子ったら、何か照れてるみたい……まだ生まれたての赤ちゃんなのに。
「ええと、どうしたら……あっ。もしかして、お腹がすいた? おっぱいほしいでちゅか?」
「……だー」
診療所でも、助産師の小母さんにやり方を教えてもらって授乳はしていたけど、初めはうまく出てくれなくて搾ってもらって、ようやく出るようになった。
出ない時は山羊のお乳をあげても代わりになるというけど、できるだけ自分のお乳で育ててあげたい。今日は、うまく出るといいんだけど……
「……ば、ばぶー」
「あら……ヒロト、どうしたの? おっぱい欲しくないの?」
「うー、うー」
(お腹がすいたんじゃないのかしら……あら。でも、おっぱいは欲しいみたいね……赤ちゃんだから、むずかってるだけね)
「ヒロト、おっぱいは怖くないのよ。お母さん、ちゅっちゅしてくれたほうが助かるからね。いい子いい子」
「あ、あぶー……」
ヒロトをあやしてあげたけど、私のやり方がうまくないのか、あんまり嬉しそうにはしてくれない。
「……もしかして、恥ずかしがってるの? 赤ちゃんでもそんなこと、あるのかしら……」
「……だー、だー」
やっぱり、そんなことがあるわけない。まだ生まれたばかりだから、ちょっと気まぐれなだけみたい。
ヒロトは私のほうを向いて、やっとおっぱいに興味を持ってくれたみたい。私は服をたくしあげて、ヒロトを抱っこして、おっぱいを吸わせてあげようとする。
「はい、おっぱい」
「……ば、ばぶー」
「あなたのおっぱいだから、ちゅっちゅしなさい。はい、いい子いい子」
どうやったら吸ってくれるかわからないので、とりあえず呼びかけてみる。ヒロトはなかなかこちらを向いてくれなかったけれど、ずっとあやしていたら、やっとこっちを向いてくれた。
「……はぷっ」
小さな口が開いて、あむ、と私の胸に吸いつく。でも、ちゅっ、ちゅっと音が立つくらいに吸ってくれているのに、なかなかお乳が出てこない。
「少し待ってね、出るはずだから……んっ……」
自分の手で揉み出してみるけれど、少しお乳がにじむくらいで、飲めるくらいに出てきてくれない。
一度助産師さんを呼んだほうがいいかもしれない。自分の赤ちゃんに、おっぱいもあげられないなんて……情けなくて、涙が出てきそうになってしまう。
「待ってて、ヒロト。お母さん、お乳を出せるようにするから……あら?」
「……ばぶー」
ヒロトが今までにないくらい落ち着いて、つぶらな瞳でじっと見てくる。赤ちゃんの黒目に映った私の顔は、自分でも笑ってしまうくらいに慌てていた。
「ふふっ……なぁに、ヒロト。本当に、赤ちゃんって気まぐれなのね……あら?」
「だー、だー」
赤ちゃんの小さな手で、ヒロトは何かをつかもうとする。その手が私の乳房に触れて、そのまま添えられている。おっぱいを自分で吸いやすくしようとしてるみたいだった。
「……ヒロト、もう一回ちゅっちゅしてみて?」
「……はぷっ」
もう一回ヒロトが吸い付いてくる。けれどそれだけじゃなくて、私の可愛い赤ちゃんが、小さな手を頑張って動かしている。
全然力は込められていない。でもぱんぱんに張って、それでもお乳の出なかった私の胸から、自分でも驚くくらいに乳汁が溢れ出てきた。一度ヒロトに搾ってもらうと、触らなくても出続けている。
「んっ……ヒロトに触ってもらったら、こんなに……赤ちゃんがした方が出やすいのかしら……?」
「んっ、んっ……ぷぁっ。はぷっ……」
息継ぎをさせてあげながら、おっぱいを飲ませてあげる。いくらか飲んだら、空気を出してあげることも忘れない。
「よしよし、よく飲めまちたねー。はい、けぷってしましょうね」
ヒロトはとても良い子にしていて、もうむずかったりしないで、私は教えてもらったことをそのまましてあげることができた。
この子は、私がいないと困ってしまう。私がお母さんとしてしっかりしてあげないと。
「……でも、おっぱいが出ないときは、今みたいにしてくれるかしら。おっぱい搾るの上手でちゅねぇ」
「ば、ばぶー」
「ふふっ……やっぱり照れてるみたい。そうよね、こんなに小さくても、男の子だもの」
「……あうー」
一生懸命おっぱいを吸っているときは、目がきらきらして可愛かったのに、またヒロトは気難しい雰囲気に戻ってしまう。
でも、私は焦ることはないと思った。ヒロトが私のおっぱいを気に入ってくれたのは、今のことで十分に分かっていたし、この子が搾ってくれたから、張ってしまって助産師さんに相談したりもしないで済ませられた。
「ヒロト、またお腹がすいたらおっぱいあげるから、そのときは今みたいにぎゅーってするのよ」
「……うー」
ヒロトに人差し指を差し出すと、小さな手できゅっと握ってくれる。やっぱり私の言ってることが、全然分からないわけではないみたい。
「……赤ちゃんってすごいわね。私のヒロト……早く、すくすく大きくなってね」
それから家の掃除をしたり、お洗濯をしたり、軽く自分の食事を作ったり、夕飯のための仕込みをしたりしているうちに、昼下がりになっていた。
朝、昼前に二回授乳しているので、三回め。赤ちゃんのうちは、欲しがるときにその都度あげるのが良さそうなので、ヒロトの様子を見て、おっぱいが欲しそうな時はあげることにした。
片方だけ吸ってもらうともう片方が張ってしまうけど、少し困ったのは、両方のおっぱいを吸わせてあげるとすごく眠くなってしまうことだった。授乳は体力を使うから、栄養をとりなさいと助産師さんに言われていたので、食事はなるべくしっかりすることにする。
このあたりは町外れだけれど、魔物が出たりすることは少ない。けれど近くの騎士団の駐屯地から、巡回の人が来てくれて警護をしてくれていた。今日も女性の騎士がふたりやってきて、安全を確認したあと、近くにある他の家や、教会へと回っていく。
平和そのものの時間の中で、私は居間で縫い物をしていて眠りそうになり、いけない、と頬を軽く叩いた。
揺りかごの中にいるヒロトも、眠たそうにしている。私はヒロトを抱えあげてぎゅっと抱きしめたあと、二階にある寝室に連れて行った。
「お母さんも眠くなっちゃったから、ヒロトも一緒にお昼寝しましょうね」
「…………」
「あら、もう寝ちゃってる……はふ。少しだけ休んだら……洗濯物……取り入れないと……」
薄手の毛布をヒロトにかけて、私も隣に添い寝をする。ヒロトの小さな身体が落ちないように、ベッドにはリカルドのお手製の柵が取り付けてあった。
お休みの日には、親子三人でお昼寝をしてもいいかもしれない。ヒロトが大きくなったら、一緒に外にでて、家族で思い出を作るのもいい。
私が両親と一緒にできなかったこと、それがいくつも頭のなかに巡って、泣きたくなるような気持ちで、でも私はもうお母さんだから、簡単に泣いたりはできない。
子供が大きくなるのはあっという間で、いつか巣立つときがやってくる。
そのときに、私は笑顔で送り出してあげられるだろうか。この子を手放すことができるだろうか。
けれどヒロトの寝顔を見ながら、私は思い直す。
この子がそうしたいように生きること。自分の夢を叶えて、考えを理解してくれる人たちと出会って、そして生まれてきてよかったと思ってくれるのなら、それだけでいい。
「……お母さんも、強くならないとね……頑張るね……」
微睡みの中で、最後にヒロトのようすを確かめて、寝苦しくなさそうだと確かめたあと、私も目を閉じた。
夢うつつに、私は歌を歌っていた。
それは私が子供の頃、お母さまが歌ってくれたものと同じだった。
◆◇◆
それから何日か経って、サラサさんがリオナちゃんと家にやってきて、そのときからうちのヒロトのおいたが始まるけれど。
私はヒロトが女の人のおっぱいが好きなのは、私のせいだと思っている。
サラサさんや他の女の人にどれだけ甘やかされても、ヒロトはきっと、母親の私のことを忘れたりしない。
それが、あの子の親としての特権。
ヒロトがどれだけ成長して、偉大な英雄になっても、決して変わらない。
幼い我が子との日々の記憶は、私の誇りでありつづけていく。




