最期まで離さないで
またしても回想回です。当初の予定では「私を離さないで」にする予定だったのですが、新聞のテレビ欄に同じ名前のドラマがあったので意図せぬところの先入観を与えるのはどうかと思い、こうなりました。
ほのぼの成分100パーセント、ファンタジーしてない感じです。
夕暮れで雪が淡いオレンジになる頃に切り上げてホテルに戻ってきた。
ナイターとかそういう洒落た機能はここのスキー場にはない。後で知ったことだがリフトの生還率は97パーセントだった。首都高より高い。あんなシンプルなつくりでよくもまあ。
「お腹減った!あと背中に雪入ってた!」
「うるさい。頭に響くからよせ。先に風呂だ」
ウェアを脱いで着替え、一度客室に戻る。
行った先に用意なんかされていないから大浴場にバスタオルや浴衣を持って行かなければならないのだ。大きなスキー場でもなければ小さいホテルでもあり、そこらへんのアメニティはさすがにない。
大浴場の前の談話室は大きな液晶テレビがあって、小さい音量で控えめにニュースが流れていた。
「とっとと入ってこい、貴様は女湯だろう」
「えーやだよ、一緒がいいー」
師匠がイルマを見下ろした。眉根を寄せて、何か言おうと口を開ける。その瞬間、音量が上がった。
「……という具合にですね、女湯で女児をさらっていく事件が頻発していると」
どこかの耳が遠いおばあちゃんがヴォリュームをいじったのであろう。油の切れた機械のような硬い動きでテレビの方を振り向く。
画面は図解付きだった。壮年の女性が女性の権利がどうたらこうたらと話しているが、あの人はどの番組のどの話題でも大体同じことを言う。権利おばさんと呼んでいる。そんな人だから彼女の喋りは聞き流した。
「はい。ありがとうございました。小さな女の子連れのお父さんには、気を付けてほしいですね」
師は無言でイルマを抱き上げて男湯へと消えた。
誘拐だけはない。笑えない。二度目は寒いというやつだ。極寒の雪山だけに。
「う、ほー……」
大浴場は色んな意味でG級だった。まず湯舟の大きさ。中でテニスができるんじゃないかという広さだ。深さも凄い。イルマの腹まであるだろう。グレート。ジャイアント。Gと呼んで差し支えない。
そして鏡の前で体を洗ったり温泉に浸ったりしているのは、老人……つまり爺……G。子供や若者はほとんどいない。そういう者たちは最新の設備があるもっと大きなスキー場に行くのだろう。すみわけ、すみわけ。
最後に浴室全体。くすんだ緑青色の、もっと薄くなったような色の艶がないタイルが壁にも床にも使われている。天井は湯気で薄く曇ってよく見えない。だが、たぶん同じだろう。
タイルは大量生産らしい一辺4センチの正方形で、五ミリくらいの白っぽいモルタルか何かの帯をはさんでぎっしり詰まっていた。当然のことながら湿気を吸った、ざらざらしたその部分には黒い点が散っていた。
立派な浴槽は一つだけ、つまり水風呂すらない。浴槽の壁にくっついた二辺のうち片方に、ひとつ、多分昔はライオンか虎だったのだろう動物の頭部に似せた蛇口がついていて、だばだばと湯を吐き出す。
中心のあたりに大人が一抱えするくらいの柱のようなものが突き出ていて、湯から出た柱頭にはどでんと裸の女性の彫像が置かれている。
むっちりと肉付きの良い、乳房の大きくない女。ルネッサンス?湯気の向こうだから顔の造作まではよくわからないが、身体を捻って首を傾げていることはわかる。
精細に作られていれば、彼女は捻った脇腹に柔らかなしわを寄せて脂肪の山をいくつも見せているだろう。
外側はもう少し青みの強い、艶のある同じ大きさのタイルが張られていた。こっちのモルタルはほとんど黒かった。
そこを床へ、40℃くらいの湯が大きな滝のようにとめどなく流れ落ちる。それは床のタイルの間や上を淀んだり流れたりそこへ留まってしまったりと、それぞれが別の生き物のようだ。
湯が流れ着く先は、縮れた比較的長い毛の絡みつく半径10センチ前後と思しき円形の、ステンレスの網目が被った穴だ。
この排水口を逃れた一部はおっさんがない髪を洗っているシャワーの下の溝へ落ちてゆく。
おっさんが向き合っている縦に長い方形の鏡は室温のせいかわずか白く曇る。顔は確認できなさそう。それを支える下方についた二つの出っ張りは酸化に耐えず赤黒い細かな虫食いをいくつも見せていた。
引っかかっているシャワーは旧式のものだ。下についている蛇口と、赤青二色のレバーを見たところ、一定時間がたつと吐水を止めるものではないだろう。
おなじみの黄色いプラスチックの洗面器は伏せた状態で五段ほど、ピラミッドみたいに積み上げられている。緑のロゴが裏から見える。露天風呂は一応奥にあるようだが、すりガラスも薄い扉の雰囲気からして期待はできまい。
……がっかり。つまりG級だ。
「どうした。さっさと身体を洗って温まるぞ」
「うん……ししょーと一緒ってだけで勘弁するよ」
「なんだそれは」
イルマは備え付けのあやしいシャンプーとレモン石鹸でもよかったのだが、乾燥肌の師はそういうわけにはいかないらしい。いつものシャンプーにリンス、ボディソープまで持参していた。もはや素晴らしい以外に言葉がない。
おかげで旅行という気分が薄れたが、致し方ない。師と一緒に温泉という体験の貴重さは旅行気分ごときでは贖えない。
いつものシャンプーで頭を洗っていつものリンスを擦り込んで、すすいだら軽く水気を切る。髪が短いから包んだりはしなくて良さそうだ。
ちらと隣に目をやると、師は髪を洗い終えたところで、頭蓋に束で貼りついた色の抜けた金髪の間から痛々しく白い皮膚が覗いていた。後頭部には大きく。
若ハゲだと思っていたが、魔導師の書斎にあった医療、生物関係の本はハゲは額か頭頂部から進行するとあったので、彼のように後ろからというパターンはあり得ない。
別に理由があるのだろう。彼が話さないなら、わざわざ聞くようなことでもない。そう思った。
もう一度そっちを見たら、彼の頭蓋は『大湯亜共栄圏』と近所の銭湯のオリジナルらしい白いタオルで包んであった。だいとうあきょうえいけん。口に出すとわかるが無駄にごつい名前だ。
耳元や首筋にほつれかかった金髪がなまめかしい。色は抜けているが、まだ金色っぽい光沢が残っている。ぎろりと黒目の部分がこちらへ回ってきた。
「何をじろじろ見ている、気持ち悪い」
「えっへへー何でもないー」
防犯対策、何気にお風呂は辛い。