早起きできるかな?
昔小学生向けの某通信教材をもらっておりまして、できるかなじゃねえんだよできないと社会にいらない認定を受けてポイされるんだよ!とこの言葉に対して思ったことがあります。
社会って言葉の意味もろくに分かってないのにね。本編です。
イルマの朝は早い。五時を告げるけたたましい目覚まし時計の音に重い瞼を持ち上げてベッドを出る。
たぶん睡眠は足りていないが、といって寝坊するとそのままずるずると生活習慣がおかしくなる。ベッドに再吸収される前に服を着替える。まだ着ていない服は柔軟剤の香りが淡い。
幸運なことに病弱の気はなく、多少の不摂生には耐えきって見せるほどの頑強さを持ち合わせている、平気だ。
「んー……今日は素振りやるか」
ベッドの下に常備しているサーベルを持ち出す。そういうことは屋上だ。
昔、部屋の中で自分の身長の三分の二くらいあるサーベルを振り回して、というより振り回されて、机の角に切っ先をぶつけて刃こぼれさせてしまったからだ。
危険だから障害物の少ない屋上でやるように、と刃先の欠片を探しながら疲れた顔で師が言ったのを覚えている。
寝室は四階にあるから、少し階段を上るだけで屋上に出る。屋上は基本的にコンクリート打ちっぱなしの何もない空間だ。屋上に出る用の靴も用意している。
広さは、二階の事務所兼リビングダイニングキッチン、いわゆるLDKが一番広くて12畳あったはずだから、階段やトイレを計算に入れると大体15畳くらいだろうか。
四方に錆びの浮いた、子供の肩くらいの高さの柵が取り付けられている。飛び降り防止にどこまで効果があるのかな?
それから、隅の方に朝顔の鉢がある。この朝顔は下に垂れ下がるタイプの種類だから壁を覆うにはうってつけなのだ。今日は水やりは要るまい。
さて、今日の屋上はちょっと狭くなっていた。6畳分くらいと、上がってきた階段の出入り口の上に青いような黒いような不思議な光沢のある板状の装置がある。雨に濡れててらてら光っている。
これなのか?太陽光発電システムとかいうの。それにしてもこんな小面積で発電できるのだろうか。うむ、不安だ。
6月の夜明けは早い。薄い色であるものの、空は既に青く染まっている。ひんやりした風が額を撫でていく。これが時間とともに濃い青、生ぬるい風に変わっていく。心の奥底に穢れが溜まってゆくように。
それを背に、人影が見える。ゆるゆると止まって見えるほど遅い動作で剣を振りかざし、振り下ろし、突く。ただ繰り返しカタツムリのような速度を保って一連の動作を続ける。
ジーパン、Tシャツ。さらにメガネ。もさい。男性としては古風な長髪を頭の後ろでくくる髪型。確か、昔の貴族なんかがああいう髪型にしていたっけ?
今は昨日会ったブラム教授のように短く切っていることが多いのに、古風な家で生まれたと見える。
「あれ、ユングも素振り?」
声をかけたことでやっと彼はこちらに気付いた。
「僕は毎朝やってますよ、ホテルとかに泊まってるときはさすがにやらないけどね」遅い素振りを止めて、レイピアを鞘に戻した。
「お邪魔でしたか?それとも、一緒にしますか?」
きらきらと期待を込めて見つめられたので、つい「じゃあ一緒で」と答えてしまう。嬉しそうにユングがレイピアを抜く。動作が優雅なのが納得いかないが、受けてしまったものは仕方ない。
サーベルを向けた。ああ、光の速さで振られる尻尾が見えるようだ。いや、光の速さだったら多分見えないけど。
――ブラムさんは猫だけど、ユングは犬だよなあ……。
「いっきますよー!」
「はいはい」
人懐こい仔犬の瞳が、一瞬で獰猛な猟犬に変わった。それを認めるが早いか、黒く湿ったコンクリートを蹴ってイルマは右に跳んでいた。
湿った音が靴裏でして、わずかに滑る。きらめく剣先にさっきまでいた空間が切り裂かれる。人の耳ではとらえられない高い音が通り抜けていった。
おおー、とユングが剣を持ったまま小さく拍手する。
「すごい!今の、剣で弾いたり受け流したりして防いだ人は何人か見たけど、避けた人は初めてです」
「褒めてくれても嬉しくないよ、私は君が放つ斬撃なんか受けられないから避けただけだもん」
「え?そうなんですか?」
「君は私をゴリラか何かだと思っているよね?」
「そんなあ、先生と違ってゴリラは大人しい動物ですよ。類人猿で例えるならむしろチンパンジーですね。あれらは気が荒いそうですから」
ちょっとそれどういう意味。ツッコミながら冷たい汗がうなじを滴り落ちる。突きではなく、右から左への横薙ぎの斬撃。
今、なんとなく右に跳んだけれど、もし左に跳んでいたら間違いなく首を刈り取られて死んでいた。加えて達人とでも呼べるものに独特の重い威圧感。サイコ少女と言えども背筋が寒くなるし、呼吸も乱れる。
「手加減とか、ないんだ?」
一気に距離を詰めたら剣の腹を手の甲で弾かれて、腹部に掌底をもらった。尻もちをつく少女に一瞬気を抜いたユングが身を乗り出して、次に見たのはイルマの靴底だった。後頭部で固定していたバンドが外れて眼鏡が飛んでいく。
切った唇を拭うと、サーベルを首筋に触れさせて少女が立っていた。
「先生こそ」
「こう見えて負けず嫌いなんだ、私」
はははとユングは困ったように眉を寄せて笑った。「ダウト」
「あららーばれちゃったーざんねんー」弾む息を努めて落ち着ける。まだ威圧感が湿った空気中に残っている。どうにも居心地が悪い。
もう一回、と言い出しそうな顔をしながらユングが眼鏡を拾ってくる。眼鏡は大丈夫なのかと聞いたら、こんなことじゃ傷もつきませんよと返してきた。昨今のメガネ業界、始まっている。
空は陰惨に黒ずんで、今にも雫を落としてきそうだった。曇天くらいならともかく、雨天でまで達人の相手をさせられるなんて悪い冗談にも程がある。
「ご飯にしよっか?」
猟犬が仔犬に戻った。サーベルをしまって、室内に戻るイルマにご飯何ですか!?ご飯何ですか!?と付きまとってくる。若干うざい。何だろうね、と言いながら考える。
早寝早起きの秘訣は決まった時刻に起きることです。あとは寝るべき時刻に勝手に眠くなります。