人間枕、人間懐炉
人間椅子っていいですよね。特にオチとか。回想です。
「お腹いっぱいでねむたーい……何してんの、ししょー」
「チェーンを巻いているのだ。スリップするからな」
サービスエリアの駐車場に屈みこむ魔導師との会話は続かない。助手席でぐうっと背伸びをした。座りっぱなしだから関節がぽきぽきと鳴る。ドライブって疲れるものなんだな。
「もう雪降るの?」
「さあ」
信じたくないけど、ししょーってコミュ障か何か?口に出す代わりに吐息が一つ、白く染まって消えてゆく。冷たくなった鼻先を指で擦る。温かくなってきた。
「こら」
擦っていた手を氷の塊に掴まれた。チェーンを巻き終えた師が運転席にいた。冷えて指先の赤くなった湿り気のある手が少女の小さな手を包み込んでいる。
「鼻が赤くなるぞ、止せ」
ふっと冷たい手が離れる。
「んー……わかった」指をあてるだけにする。その手は、師の指が触れた部分だけまだ冷たさが残っていた。「ししょーの手、冷たいんだね」
「すまんな。外でチェーンをいじっていたから冷えたのだろう……ベルトは締めたな」
いつものようなごつい革製のブーツではなく、華奢で柔らかそうな布のスニーカーがアクセルを踏む。
夕日を背に走っているから、師の後ろ髪をオレンジ色に染めて、反射したバックミラーの輝きが目を焼く。きいきい頼りなくベルトが鳴いていた。
だんだん、雲行きが怪しくなってきた。千切れ飛ぶ白い雲が集まりだす。それはやがて赤みを帯びた灰色に、それから黒に変わってゆく。太陽の断末魔はすぐに厚い雲に覆われて見えなくなった。
「向こうでは」平時と比べて少し高い声で言った。男の横顔には期待で膨らんだ笑みがある。「もう、降っているかもな。雪」
日が落ちたのか、一気に暗くなった。
「ししょーって、雪見るの初めてなの?」
「いいや、昔見たことがある。仕事で行った先でな」
「じゃあプライベートは初めてなんだ」
薄い唇が微かに動いたが、聞き取れなかった。トンネル内を照らす低圧ナトリウムランプが景色を橙色の闇に染める。車の中も夜の匂いがし始めた。師の顔もイルマの顔も同じオレンジと黒に染まる。
ふふぁ、と欠伸が押し出された。
トンネルを抜ける。料金所で一時停まって、白髪のおじさんにいくらか支払ったらしい。眠気が昇ってくる。でもまだ眠りたくない。うつらうつらと舟をこいでいたら、例の冷たい手指が頬を撫でた。
「近くのサービスエリアで、車を止めよう。もういい時間だ」
「うー、今のでちょっと目が醒めたよぅ……」
店はさすがにまだ開いている。一番暗くなっている駐車場の隅に車が止まった。横についたレバーを引くと背もたれが倒れる。シートベルトを外した。
車のシートはあちこちごつごつしていて、足も伸ばせないからいまいち寝心地は良くないけれど、眠気が勝る。
うるんだ目で隣を見ると、師はぼうっと天井の一点を見つめているようだった。
そっとその手に触れてみる。やはり冷たい。だが、先ほどのような、氷のような冷たさではない。じっと握っているとゆっくり温まっていく。
人間らしいぬくもりが戻ってきていた、と言うには冷たすぎ、死体のようだと言うには温かい。間にいるのかもしれない。そっと握る。
二人を隔てているものは、皮膚と衣服と、シートの間の脇息だけだ。それと……さっきから手を握っているけれども、師はまだ目を開けて起きている風だけれども、気づいているようには見えない。
いいかな?
ちょっとくらいなら、いいよね。
そっとシートの間の脇息を背もたれの間に倒した。できるだけさりげなく師の方へにじり寄って、そうすると尻の下のシートがまだ体温で暖まっていないので冷たかった。まだ、師はこっちを見ない。
少しだけ大胆に、その肩へ倒れ込む。体幹の部分は尋常な体温があった。思ったより筋っぽくて硬い。寝心地はさっきまでより悪化したはずだが、あっという間に彼女は寝息をかき始めた。
魔導師が意識を取り戻したのはイルマが眠ってしまってから、20分も後のことだった。浅い呼吸を繰り返しながら、周囲を見回す。彼の主観ではついさっき車を止めたところだ。サイドブレーキは掛けたか、エンジンは切ったか?
サイドブレーキはかかっていたけれど、エンジンは切っていなかった。暖房もつきっぱなしだ。このまま放っておくと、何らかの原因で排気管が詰まった時一酸化炭素中毒死待ったなし。
エンジンを切ると、多分関係ないけれど、肩の上でイルマがむにゃむにゃと寝言を言う。いつの間に眠ってしまったのやら、と笑みを誘われる。
あまりに早く気温が下がってゆくので、温かいほうへ倒れてきてしまったのだろうかと思った。確かに寒い。
ちょっと手を伸ばして、後ろの席に畳んで置いてある厚手の毛布を一枚とった。へばりつくように眠るイルマをさらに胸元へ抱き寄せるようにして、毛布を自分たちに巻きつける。
だんだん、温かくなってきた。
全身が融けてどろどろの液体になり、それも蒸発して消えてゆくような心地よい眠りに落ちてゆきながら、彼は、頭のどこか奥でどちらがどちらに温められているのだろうかと堂々巡りに考えていた。