深夜と湯舟と病死フラグ
ふう……熱意はあるのに時間がない……。誰か私に時間を分けてくれ……。
雨のせいでダイヤが狂い、事務所に戻った時には深夜の一時を過ぎていた。
まあ雨のせいというよりは雨で沿線の川が増水したせいで中型のクラーケンが海から遡上してきて、一時的に線路上を占拠していたせいなので、そこから考えると雨のせいなどというのはまあまあ語弊があるのだけど、直接的な原因が雨であることには違いないので、雨のせいだということにする。
時計を見たら眠気が増すので、くぁ、と欠伸をする。
「お風呂入ってくるねー。ユングもちゃんと寝るんだよ。睡眠不足は万病のもとだからね」
ばさばさとマントや上着を脱いで、いったん自分の部屋に戻り、着替えを取ってバスルームに向かう。まだドアの静脈認証は機能していなかった。ちょっとだけほっとする。
「俺いきなり死の危機が迫ってんだけど……」
無視!
バスルームと言っても、トイレと一緒になっているわけではない。トイレはまた別にあって、いわば風呂場だ。人が一人ゆったり入れるくらいの湯舟とタイルの床、シャワー。築年数にしては奇麗なものである。
風呂は命の洗濯とは言うが、湯を溜めていないからシャワーだ。仕方ない、仕方ない。
出始めは水が出る。冷たいそれを頭から被る。だんだん温かくなってきた。髪の毛全体が濡れたところで蛇口をひねり、水を止める。
軽く頭を振って水を切ってから、シャンプーをワンプッシュ頭頂部に乗せてわしゃわしゃとかき回す。泡だらけのまますすぐと水がもったいないから手櫛で泡を落とす。
毛が何本か指に絡んで抜けていく。本数、正常の範囲内。禿げてない。
泡を大体駆逐したところで、シャワーを浴びる。指に絡みついた毛束を抜き取って排水溝に流す。あとはそこに引っかかるからくるくる巻き取ってポイだ。ヘドロにでもなったら目も当てられない。
リンスはそれから、主に毛先に吸わせる。しばしおいてからまたすすぐ。一度すすぐのを忘れてそのまま乾かしたときはパリパリになった。念入りにすすがないと。
ぎゅっと毛束を絞る。ドライヤーは使うけれど、電気だってただではないのでできるだけ水気を切りたい。さらに髪をフェイスタオルで包む。乾きが早くなるのだ。
実際、真夏ならこのままドライヤーを使わなくても乾く。タオルは人類の発明として誇っていいと思う。
体を洗うのはここからで、浴室内に吊るされているボディタオルを湯にくぐらせてから石鹸を一度擦る。次が閊えてるから手早く。十分に泡立てたら直接肌に当てて汚れをこすり落とすのだ。
厚くて弾力のある黄ばんだ肌は、この程度なら音を上げない。病み魔法使いのような白くて脆い肌を持つ人は痛いらしいが、すっきりするなあとしか思わない。
雪のように真っ白な美貌、あこがれないわけではないのだが、生まれつきなもので変えられるものでもない。顔だって水ですすぐだけだ。
ざぶざぶと強めの水圧でシャワーを浴びて、すっきりしたので野生動物みたいに手足を振って水気を落とし、風呂から出てバスタオルを出す。ぼたぼた水が落ちるから上から下へ拭いていく。
今日は柔らかいほうのタオルだった。おお、贅沢贅沢贅肉ー。
ん、贅肉?疑問に思い、しっとりした腹のあたりをむにむに触ってみる。
「うわ、お肉ついてる……しばらく仕事なかったからか。昨日くっそハードワークだったのに、騙された感じがあるなあ」
勤務時間はおろか勤務内容までも不規則かつ無秩序な生活というのは、女子には辛い。主に肉。くううう……と歯を食いしばっていたら脱衣所のドアが無造作に開いた。何奴!?と身構える。
「先生、剛志のやつソファで寝てるんですけど、放っておいていいですか?」
何だユングか、と構えを解く。異世界人がソファで寝てしまったらしい。ほうれんそう――報告連絡相談がなっている、いい助手である。女を女とも思わないことを別にすれば。
イルマも目の前の男を男と思っていないような気もするけどね。
「いいよ。とりあえず消毒用アルコールでも薄く吹きつけといて」
「はーい」
「ちょっと、閉めていきたまえ!」
文句を言うがユングは戻ってこない。やれやれだ。
ドライヤーで髪の水気を飛ばす。パジャマを着てバスルームを後にする。部屋の扉の認証システムを起動した。当てるのは右手かな?左手かな?利き手の右を当てようとして、左に変える。これでいいらしい。本当かな?
なんとなく不安だが、これまで鍵もない部屋で寝ていた人間が鍵をつけた瞬間に不安になるのもおかしい話なので忘れる。
鍵はどうやって閉めるんだ?まあいいか。ドアを閉めてベッドに潜り込む。不安は何だったのか、すぐに眠りに落ちた。
足元のシーツが冷たかったのを、よく覚えている。
この後しばらく回想が入る予定です。