入れ子の構造
回想します。
少女は目覚めた。いつもと同じ天井。同じベッド。彼女の主観からは描写すべきものなど何もない。
天井は壁と同じ鴇色なもので、ブロンズ風に塗装されたアンティーク調のシャンデリアが吊り下がっているものだ。
ベッドは彫刻の多い白木の色で、ダブルサイズで、豪奢なドレープのついたピンク色の掛けカバーがあって、刺繍の入ったサテン生地で包まれた枕がゴロゴロ三つ転がっているものなのだ。
他の型なんて、知らない。
少女の髪は長い。足首に届くくらいの長さがある。もちろんそのままでは日常生活に支障が出るから、三つ編みにされたり結い上げられたりしている。
だがまだ朝早いから編みこまれていない。ふわふわと編まれていた時の癖を残して波打っている。
そのことも彼女からは描写に値しない。いつも通りだ。
「さあ、編みましょうね」
それから。起きた時、すぐ隣に母親がいるのも、いつも通り。
「イルマちゃん」
このやりとりもいつものことだから、少女の中では描写されない。次何を言うかもパターンで答えられる。
母が背中に回って、イルマの髪を編み始める。今日はどういう髪型になるのだろうか、とも考えない。編み方も日により変わるとはいえいくらかパターンがある。読めているのだ。読んだ通りの髪型。
朝食。果物の入ったパイ。味とかろくに考えたことがない。フリルとリボンで飾られた純白のネグリジェを脱がされて、ワンピースを着せられる。
これもまたフリルとリボン、スカートも広がっている。似たようなデザインのものがいくつもある、描写に値しない。童話にでも出てくる姫君のような扱いだがそのことに何も思わない。
イルマの中で描写が始まるのはここからだ。
朝食が終わると昼食まで、書斎に入り浸るのだ。この中もほとんど描写されない。
ここまでの部屋とはだいぶ趣味の違う、暗褐色の家具たち。わけのわからない、極彩色のトーテムポールのようなもの。壁にはよくわからないポスターのようなものが貼られている。
見慣れている少女からは家の中は無色の世界だ。この部屋に色がついているとしたら、寝室やリビング、ダイニングとは異なるという、ただそれだけの色だ。
すべての世界が真っ白に塗りつぶされていて、この部屋の中の空間だけがわかるかわからないか程度に影がついている。
古い紙の香りも、少女が思うのは『他の部屋にはない』ことだけだ。無色。無色の世界の中で、棚に入りきらず山積みになっている本の山だけがほんのり色を持っている。これにも多いと感じることはない。それが当たり前だからだ。
前に読んだ本はどこに置いたかな。まだ途中だったけど。がさがさ、少々無遠慮に本の山をあさる。
手に取ったのは、正しくは本ではなかった。雑誌や新聞の切り抜き、やり取りした手紙などが挟まれているクリアーポケットのあるファイルだ。
読み終えるごとに、読み終えたページが、無色に近づいていく。一度読んだだけでは不完全だ。何度も読み返す。どんどん色が消えていく。
無色になった本を本の山に戻した。また別の、色のついた本を取り出して、透明にする作業を繰り返す。
ここでは時間の流れも分からない。腹時計で朝昼晩が分かれているだけで、その腹時計もいつもと同じ時間にいつもと同じ動きをするだけで、だから今が何日かよくわからない。
でも多分、自分は6歳だったと思う。
父親は何の仕事をしているのだったか、よく知らないが、朝早くに家を出て、夜遅くなって帰ってくる。あまり顔を見たことがない。
帰ってくるときに煙たいような腐ったような変なにおいがする。きっとそれが外のにおいなのだろうが、外に出たことがないからわかるわけもない。
お外は危ないのよ、と母が言うから、外に出ることは許されないから。
本で得た知識によるとイルマは中々贅沢な暮らしをしているらしい。しかし家はさほど広くない。ということはおそらく父は馬車馬のように働いていたり母親が節約していたりするのだろう。それは珍しいことなのだろう。
だがそのことに何も感じない。それが当たり前だから。
昼食。五日に一回、はちみつのトーストが回ってくる。そして今日がその五日に一回。旨いとか旨くないとか考えたこともない。まるで無味無臭だ。
また書斎に戻る。たまに走りたくなったりして、家にあるロードランナーで走ったりするが今はそうではない。世界から色をなくす作業が延々と続く。
夕食。ハンバーグ。4と3の公倍数の日に出る。じゃあ今日は12日か24日かな。終えると入浴、ぬるま湯に30分くらい半身を浸す。体にいいらしいけどわからない。就寝。父が帰ってきた臭いがした。あっという間に眠りに落ちる。
少女は目覚めた。
母親。
朝食。
古い本。
書斎。
昼食。
書斎。
夕食。
入浴。
就寝。
今日、本の山を読み終えた。世界から色が消える。1年が過ぎた。おかしいな7歳って7歳になってまでも家から出ていないっておかしいおか
「イルマちゃん」
無色。無色。無色。無色。無色。無色。無色。無色。無色が無色で色がなくて頭がおかしくなりそうで色が消えてもう何もなくて何もにもなになになになにあああああああ
「イルマ」
呼ばないでもういい加減こんなの嫌だあたまおかしいこんなのったって他に何かあるのかなかなかないないないない
「起きろ!」
少女は目覚めた。
「あ……あれ?」
身を起こさないまま目が泳ぐ。壁の鴇色もベッドのドレープもない。
くすんだ灰色の布団を被っている。マットレスのカバーは茶色。肌触りはふわふわしている。枕はどこかに吹っ飛んで。卵色のスウェットの上下をパジャマとして着ている自分の髪は短い。首の半分くらいまで。
顔の右隣に誰かの手が置かれているらしい。同型のベージュのスウェットの袖が視界の端に見える。顔の半分から胸、腹、つま先まで黒く影が落ちていた。正面に視線を戻す。
「何をうなされているんだ、朝から」
逆光で髪の影が落ちていて、顔がよく見えない。話す口の中だけは見えている。白い歯と、深い桃色の口内で舌が踊る。藤色の瞳に憔悴しきった自分の顔が映る。
瞳の中の自分が淡く笑みを浮かべた。
「えへへ……何でしょう、ね」
魔導師が冷たい手を首の後ろに差し込んで、少女を抱き起す。夢のようにはならなかった。7歳の時に両親が蒸発、サラ金に家を差し押さえられ、魔導師のもとに弟子としてやってきたのだから。
水の入ったホーローのマグカップを受け取る。
「なんか今日、ししょー優しいね」
すっとぼけてみたらくしゃっと優しい手つきで頭を撫でられた。優しい手つきではない。力が入ってないだけだ。その証拠に本体は疎ましげな顔をしている。
「本気でその言葉が出てくるならお前の頭は年中花畑だな」
「もっと撫でてよー、けちー」
文句を垂れながら師の後を追ってイルマの部屋を出て、階段を下りる。来たのはリビングとダイニングを兼ねる事務所。
来客はあったが、師は着替えろなどとは一言も言わなかった。彼もパジャマのままで、客の方に目もくれずのんびり科学雑誌を読んでいる。
そんなことだってあるだろう。客だって今は忙しくてイルマたちに話を聞くのは後にするらしいから。
きっとあの無色の生活は2度と送れない。そうだよね、お母さん。
イルマは警察官が3人ほどであれこれ言いながら調べている死体袋に笑いかけた。