墨、染めた
目の前にはユングがいるだけだ。それは変わらない。何かが移動したりはしない。
ただ、あの重い杖が、手袋が、衣服が、眼鏡が、つるつると体の中を突き抜けて洞窟の床に落ちた。彼女の知っているユングはいない。淡く透き通っているところは彼の祖母、オフィーリアにも似ているが……。
色合いは普通に全裸のおにーさんだ。顔もそのままだ。イケメンよりになっている気はするけど他の部分で台無しになっている。やっぱり筋肉質。
ざわざわとどこからともなく青い茨のような触手が生えてきて、全身に巻き付く。なんとなく服っぽい形にまとめてあるので少なくとも丸見えではなくなったが、これも彼の体の一部だ。
やっぱりちょっと透けてる全裸のおにーさんだった。オニビが頭を抱える。
「十中八九露出狂か変態として通報されるからって言ったのに……!」
その言葉はかなり悲痛な響きだったが、内容のせいかまったく心に響かない!そして意味が分からない!わかりたくもない!さらに訳が分からなくなった!
「な、何これどういうこと」
「オフィーリアと変わらないよ……あの子はヒトの血が薄い、というより魔物遺伝子抑制遺伝子が働いていない。だから普段は人間の姿で、意識的にあっちに変わることが……うっくそっ!わが孫ながら荊つきの全裸で佇む姿がキモイ!あいつを思い出す……何か着てくれ、俺が食ってもいない飯を吐く前に……!」
それは無理だと思うよ、服が突き抜けちゃうから。とりあえず落ち着いて。イルマはちょっとだけ冷静になれた。こっちも本来の姿なのか。見ようによっちゃ神秘的にも見えたりするからそんなに怒らなくても。
「先生!僕は何をしたらいいですか!?」
「あー……うん、鱗でも剥いててくれたまえ。そこにダメージが通らなくて」
はーい!オニビの声が聞こえているのかいないのかユングはいい返事をした。すさまじい絵面である。聞こえていたがお荷物扱いではなくなったことが嬉しくてそれどころじゃなかったのかもしれないと思ったら和むこともなかった。
あと、別に臨機応変な対応ができるようになるわけではないことが分かった。
「確かに気持ち悪いけど……一応本人も気遣いはしてるし、魔物成分はユングのせいじゃないし、その、そこまで言わなくても」
そのころユングは電子レンジでチンの原理で腐った死体の体内の水分を振動させて肉を削ぎ落していた。着実である。水である以上、ウンディーネの係累は魔力に関係なく好きに操れるのだ。
便利な能力だが欲しくない。
「顔が変わっただろ!?微妙に変わっただろ!?あの顔で全裸で立たれるとあいつを思い出すんだよ!!!俺も半魔なのに魔物成分がキモイもんか!むしろ人間成分がキモイッ!やめてくれえええええ!!!」
「どっちにしろユングのせいじゃないじゃないか。泣くなよ……私がいじめてるみたいになってる」
「もういやだ……何もかも私が悪いんです……」
ユングと同じ姿勢で泣き伏すのはさすが祖父と言うべきなのか、何なのか。心の底までは動揺していないからイルマの魔力に影響はないが、戦力が一減った事実は重い。
(オニビさん、実は私より強いのに……)
「先生!竜の皮剥き終わりました!肉も剥いちゃいました!次はどうすればいいですか!?」
「へえ……肉も剥いちゃったの。とりあえず元の姿に戻って服着よう。あとオニビさんが駄目になってるから慰めてあげて」
はーい!またいい返事が返ってきた。なんか決意してたような気がするけど、忘れた。そんなことより脱力感が止まらない。魔法が有効になったところで、杖を取り出す。血染めの方だ。
「じゃあ、やろっか?」
「……。」
ドラゴンの白骨死体は何も言わない。
「ああ、舌が爆ぜちゃって喋れないんだ。不思議パワーとかそういうので何とかならないの?」
「……。」
ならないらしい。何とも不便である。しかも表情も読めない。表情筋がないから表情がないのだ。ただ、何となく眼窩が血染めの杖を見ているらしいことはわかった。
どうやって見てるんだ?なんて言ってはならない。だって目の奥に怪しげな光が宿っているから。
「ああ……この杖ね。ししょーは捨てろって言ってたんだけど、もったいないからもらったんだ」
いいでしょ、と柄の木目をなぞる。ヘモグロビンで朱に染めた流れるような縞々。
「懐かしい?私にはあまり似合わないよね、これ」
だってサイズが大きすぎるもんね。背丈を超すどころの話じゃないよ?腰だめに構える。骨が開けた口の中に炎を見て地を蹴る。こんなになってもブレスが撃てるんだな。
「せんせー!僕のパンツ知りませんかー?」
無視する。
放たれたブレスを十重二十重に重ねた盾の魔法で防ぐ。あと二枚のところでブレスが消えた。私にしてはいい見積もりだ。少し得意な気分になる。いつもあと四枚とか五枚とかになってしまって無駄が多い。走る。
走って、誘い込む。
「そ――りゃあ!」
重い杖を振り回して、ヘッドを白骨に向ける。これじゃダメなんだ。白骨じゃ。白い骨じゃダメなんだ。杖の先から黒々と霧が噴出した。黒の呪い。生きている相手に使えば、全身真っ黒になって三日後に心臓が止まる。
成功すればの話だが。
「……。」
何を言おうとしているのか、ない表情からも読み取ることは当然誰にもできなかったが、モノローグとして死体が言いたかったことを語ると大体次のようになる。
馬鹿めが!あって2割弱の成功率に賭けたつもりか!否!そもそも死んでいる儂にそれは効かぬ!魔力の無駄遣いであったなあ!
誰にもわからないドラゴンの哄笑そのままに、賭けの結果は失敗だった。あって2割弱、の成功率で成功したらラッキーパンチにもほどがある。幸運の星の下にでも生まれない限りは決まらない数字だ。
もし2割以上の確率で成功したって実戦では使えるうちに入らない。当然、プロの魔導師がこんな状況で繰り出す技ではない。
なお、この呪いは失敗すると数分の間相手のすべてが黒く染まるだけである。すべて。皮膚。毛髪。歯。爪。内臓。眼球。脳細胞。靭帯。骨。そう、骨もだ。
重たい杖の先で壁を削りながら、洞窟内に張り巡らされたテグスを足場に駆け上がる。
すべての準備が整った。
黒ってかっこいいなあって話でした。感想、書いてくれてもええんやで……




