表裏二体
表裏一体という四字熟語の格好良さと来たらもう。四字熟語という文字の並びの重々しさと来たら、ああああああ。
だけど個人的には欣喜雀躍が好きです。そんな回想編です。
「う、うわあああっ!熱い!熱い!」
どうにか起き上がったドラゴンが顔面から煙を上げながら遠ざかっていくのを横目に、出口へ足を進める。
進める脚がうまく動かない。物体操作が切れてきているのだ。左手を壁に沿わせて、転倒に備える……転ばぬ先の杖は持っているが、いつもはそうやって歩いていないからバランスを崩しそうだ。
痛い。痛い。切れたのは麻痺剤もそうだろうか。足首の傷が痛い。折れた指の骨が痛い。ふくらはぎが千切れそうなのは肉離れなのか。どこで折ったかわからないけど肋骨もやられているだろう。
魔力を込めすぎて、熱源に近づけすぎて、杖を握る手のひらの皮が焦げた手袋の中でめくれ上がっている。右手を握ったまま開けない。
ごぼごぼと音を立てて胃の中身が逆流する。吐き気は後から来た。たまらず壁を掴んで吐くから、気管が塞がって息ができない。笑えてきた。また、ひたすら出口を目指す。
目がかすむ。それでもまだ何とか、出口の明るさが見えた。
胸がじりじり痛くて息ができない。苦しい。湿った地面に倒れる。寒い。寒いのに汗がねちょねちょ首筋を伝う。手を前方に伸ばして、爪を立てて、体を引き寄せる。
這う。這いずって近づく。ぱしん、と軽い音で爪が割れた。血が流れだす温かい感触とともに指先の感覚が失われていく。
もう何も見えない。瞼が上がらない。感覚のない両手が一人でに地面をひっかくが、這って進むこともできない。死体を食う虫どもが集まる気配がある。動かなくなる時を待っているのだろう。
ばたばたと足音がして、不意に虫がいなくなった。何だ?人の声、なのか?ぼうぼうと響いてよく聞こえない。とうとう幻覚が始まったか。
――まだ、教えなくてはならないことが……あったのに。
冷え切った頬を、温かい何か平べったいものが圧迫する。手だろうか。指を一本一本ばらばらにして掴む。この手つきは女じゃないな。そのまま頭が持ち上げられた。助けられるらしい。
もうやめてくれ、眠いんだ。どうせお前も幻覚なんだろう。いや、それにしては肌触りが悪い……。
「おい!しっかりしろ!寝るな!お前はドラゴンをどうにかしたんだろ!?こんなとこで死んでどうするんだ!」
聞き覚えのある声がして、頬を平手で張られた。重い瞼を何ナノメートルか開ける。ぼやけにぼやけた視界の中に黒い顔と、白目と、歯が見えた。
「カミュ……?」
「そうだ!今すぐ病院に担ぎ込んでやるから死ぬんじゃねーぞ!」
呟いた相手の名前が情けないほど掠れていて、自分の声だと気づくのにかなり時間をくった。
ずるりと担架のようなものに――いや、多分そうなのだが――に仰向けで乗せられる。頭はそこへ下ろされたが、さっきの手が硬直している指を杖から外して、今握られている感触がある。
手のひらは焼けただれていて、あとで聞いた話では指の付け根の関節に手袋の裏地が焼き付いていたそうで、ひたすら痛かったが不思議と嫌だとは思わなかった。痛みすら心地よい。
「カミュ……カミュ……っ」
「何だ?何か言いたいことでもあるのか?聞いたら死にそうだけどお前が何も言わずに死んだときが嫌だから今聞くぜ。あ、腐女子が歓喜するような方向性の告白とかはなしな」
誰がするか馬鹿野郎。抗議の意を込めて手を握り返そうとするが、手の大きさが違いすぎる。しかも力が入らない。無理だ。
「倒してない……!ドラゴンは、顔面に魔法をぶっぱして一時的に……退散、しただけだ……戻ってくるかも……警戒、」
「してるよ。あと、わかってないだろうから言っとくと、今救急車の中な。洞窟の外だし。イルマちゃんも帝都に戻ってるぜ。にしても、変なとこ真面目だな。いちいちそんなこと訂正してくるなんて。俺なんかちゃっかり倒したことにしちまうぜ」
「馬鹿めが。一遍死ね……」
「ひでえ!?」
またぼうぼうとすべての音が反響を始める。その音を聞きながら、ゆっくり気が遠くなっていった。寒気が消えている。暖かい。彼は意識を手放した。
……。
……。
「!……い!」
おかしいな、意識を手放したはずなのに苦しい。
記憶ではそこから気が付いたらああだったのに。首が。誰かに首を絞められているようだ。脳が酸欠を訴える。指が喉に食い込んでいる。
耳から下に引いた直線上に八本の爪が刺さる。首筋と喉の間の柔らかいところに二本の太い指が潜り込んでいる。これは誰の?薄い膜のように眠気が意識を覆っていて、危険を感じるのにどうにも応答できない。
「ニーチェ!起きなさい!」
誰かの声がして、首を絞める手と首の間に指がねじ込まれる。冷たい。
ねじ込まれた指が、爪が喉の皮膚を削る。首に絡みついていた手が引き剥がされる。眠気の膜がそれで割れた。目を見開く。顔。その拍子に勢い良く息を吸って、むせる。
「うっ!?げほっ、ごほっ……!」
「死ぬ気ですか、あなたは!」顔がハッキリと網膜の上に結ばれた。母、と呼ぶべきひと。鬼だ。細い指が自分の両手首を締め上げて、ベッドに押し付けられている。
「どういう寝相してるんですか、自分の……自分の、自分の首を絞めるなんて!」
怒鳴られながら涙目でげふげふと咳き込む。話せない。
どうにか身を起こした。首を捻るとベッド近くに化粧品入れが口を開けたまま放置されていて、蓋裏の鏡に青ざめた自分の顔が映った。首には青紫色に指の圧迫痕が残っていた。確かに、ジールのものと考えるには手が大きすぎる。
考えるには、だって?
「熱が下がってきたからって、ちょっと目を離したらこれですか!?もうっ……手のかかり方が不均一すぎて涙が出そう……。どうして?私がずっと放っておいたから?ちゃんと見てたのが、ここ数日だけで……だから?」
――そんなこと、考えるまでもなくとっくにわかっているくせに。
耳に息が吹きかかる。体温は下がっていないはずだ。むしろ高いはず。なのにその息は熱いように感じた。
どうもこいつはヒステリックでいけない。混乱するべきだろうか。心は穏やかな海のように凪いでいるが。困惑するべきだろうか。
困るどころか惑う要素などどこにもないのに?
「違う。単に脳が誤作動を起こしただけだ。深く考えるな、特に意味はない」
耳元で女がしゃくりあげるのが聞こえる。何か温かい雫が首筋に落ちた。泣いているなら、頭を撫でてやらないと。でも手が押さえつけられているから動かない。
「……でもっ、」
「考えるなと言っている。何だって俺が好き好んで自殺せねばならんのだ」
ごとっ。肩が重い。ジールが頭をそこに押し付けたのだ。手首を締め上げていた指から力が抜ける。
「……罵倒、しないんですね」
「ふん。明日はきっと雨……と言いたいところだが、今は梅雨だ。晴れだな」
んふっ、と肩のあたりで失笑が聞こえた。
「何なんですか、それ。言うことまで何だか前向きになっちゃって……らしくない」
今はらしくなくとも、いつかそれが「らしい」者になろう。それができなくても、もし明日が晴れならこの残念なぺちゃぱいを呼んでみよう。
お母さん、と呼びかけてみよう。
途中から回想じゃなくなってた?ええまあ。