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病み魔法使いの弟子  作者: ありんこ
少女よ、生き抜け。
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駅前の魔法使い 5

 ともあれこの後もユングは必死に勉学にはげみこの日の夕刻にはどこかに帰って行った。日当は決まって、しっかり振り込まれていた。

 そんなことが三日ほど続いたある日、イルマはあることが引っかかった。

「ね、ユングってどこに住んでるの?この辺では見ない顔だから電車か何か使ってるの?」

「実家は遠いので近所のビジネスホテルに泊まってますよ……」

 毎回話しかけられるごとに手が止まっていたユングだが、もう慣れてしまったらしい。右から左に聞き流しているようだ。

 実家から遠くまで来て、ビジネスホテルか。けっこうこの人お金持ちなんだな。そんなことを思う。

――ししょーは薬代とかでけっこうかつかつだったけど。

 分厚い遮光カーテンの隙間から燦々(さんさん)と差し込む朝日を浴びてもぞもぞと淡い灰褐色のシーツの盛り上がりが震える。これは、五年前の記憶。

「ししょー!」

 小さな塊が跳ねて来て、空中で半回転してシーツにかかとを落とした。何か重いものを蹴った音が部屋の中にずー……んと響く。がくっとシーツの山が凹み、さっき蹴りを入れた少女がずるっと床の上に滑り落ちた。

「うぐぁ……っ」

 シャレにならないレベルの苦悶の声を上げてシーツの中から一房、色の抜けた金髪が滑り落ちた。

 しばらくして男が顔を出す。さっき踵の刺さった脇腹を押えてずるっとベッドから抜け出し、流れるような動きでベッドの下からサーベルを引き出した。

 切っ先をイルマに向けて構えた、と思うともう跳んでいる。

「――どういう、了見だ」

 その言葉を聞いたのは首筋に冷たいものが当たってからだった。背中側が温かい。後ろを取られたのだ。

 はいはい、フリーズフリーズとふてくされて両手を頭の後ろで組む。

 目にもとまらぬ早業だが、多少身体能力が高めなだけで彼自身は決して剣術が得意ではない。せいぜいその辺の陸軍兵士がいいところだ。

「どういう思想をもって、こんな爽やかな朝に俺を蹴ったと聞いているのだが、……っ」

 背後で激しく咳き込む音がくぐもる。そもそも爽やかな朝にベッドの下からサーベルは出てこない、などという言葉は吹き飛んだ。

 どうやら彼は病気らしいことは知っていた。しかし、いくつか薬を飲むだけで普通に仕事をして普通に毎日を過ごしていたからさほど悪くはないと思っていた。

 夢にも思わなかった。まさか死ぬなんて。

 この日の咳もそうだった。ちょっと具合が悪いだけで大したことはないだろうと思っていたが、聞いているとひゅう、ひゅうと変な音が混ざる。肺や気管が悲鳴を上げているみたいだ。

 突然、痙攣けいれんするような手つきで首筋のサーベルが引かれた。イルマは振り向いた。師のほうはサーベルを放り出してしゃがみこんで咳き込んでいる。まだ、咳は止まらない。

「だ、大丈夫?」

 心配になってきた。師は答えない。咳き込んでいるから答えられないのだ。

 背後に回って、とんとん背中を撫でる。寝乱れたパジャマの襟もとから覗く鎖骨のあたりの肌は軽く乾燥して点々と小さな黒い染みのようなものが散っている。

 のちに薬を変えたら半分くらいに減った。頭髪の色も頭髪本体も本人の精神も減ったが。

 やがて、必死の看病の甲斐あって、かどうかは定かでないが彼の咳は治まった。ふう、とかすれた息をひとつして師は身を起こした。

 澄んだ藤色の両目の中心、瞳孔の深淵にゆらゆらイルマの顔が映る。

「どの口が言うか」

 ずびし、とチョップが脳天に突き刺さった。容赦ない。体罰だ!いつか訴えてやるといつもの暴言を吐いてぶぶぶと膨れる。師のほうではサーベルを取り上げて剣の腹でぺしぺしと手のひらを叩いている。

「大丈夫?……そんなくだらん三文字は別に要らんのだ。腹は膨れない、目の保養にはならない、スーパーの換金できるポイントもたまらない、人生のこやしにも当然ならない。そんなことより質問に答えろ」

 イルマは本が好きで、深海生物の本もUMAの怪しい本も好きで、誕生日にねだっては周囲の大人に困惑されたり本当にそれでいいのか何度もしつこく確認されたが、それでも後悔はなく面白く読破した。

 が、それでもこの師匠以上にわけのわからない生物、明らかに進化の方向性を血迷った者を見たことはまだない。

 どこまでもこの男は偏屈な上に根性が360度をはるかに超える勢いでねじ曲がっていてそれどころか頭も大分おかしかった。

 逆に上を行くものが現れたら尊敬する。

「さあ、答えろ……俺は気が長くない」

 質問。どれのことだろうか。あれか、これか。確かさっきこの人は何と言っていただろうか。文脈的に、質問とは。

「……ししょーが約束を忘れるからいけないのさ」約束?と男がいぶかしげな顔をする。ほら見ろ覚えてない。「昨日、朝ご飯にフレンチトーストを作ろうって言ってたじゃないか」

「フレンチトースト……ああ、あれな……」

 思い出したらしい。サーベルを元通りにベッド下に戻して、部屋を出る。しばらくして戻ってきた。なぜかパソコンを立ち上げる。かちかちかち、と何か打ち込む。

 えーっと。

「お兄さんは何をしているのかな?」

 見ればわかるだろうと少し決まりの悪そうな顔で師は言った。

「作り方がわからないから調べるのだ」

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