今日から師匠始めるよ
回想しかしないようです。
「私はイルマだよ。おじさんは?」
「実存。名前はない」
「まだないの?吾輩なの?どこで生まれたかとんと見当がつかないの?」
「そうそう何だか薄暗いじめじめしたところでにゃーにゃーと……そんなわけがあるか愚か者」
「タロットカードは信じてないから文字通りの意味に受け取るよ?いいのかい?」
「奇遇だな、占いの類は俺も全く信じていない」
事務所のカウンターの向こう側のソファに座って、父親カッコ仮にひたすら話しかけている。カッコ仮はソファから少し離れたロッキングチェアに目を閉じて座っている。揺れていない。何て器用なんだ。
「チビ、貴様は両親の蒸発まで幼稚園やら保育所にも通わず、小学校にも顔を出していないらしいがどういうことだ」
「お外は危ないから家の中にいましょうねって言われたんだ。それを信じてたから、家にいた。でも本で勉強したから、読み書きは人よりできると思うよ、お父さん」
実存は鼻白んだように目を開けた。イルマの方へ視線をやる。今度はイルマがドキッとする番だった。誰にじろじろ見られても何とも思わなかったものが、なんとなくそわそわしている。
「……実際俺がそうだと思うか?母親がそう書いていたとはいえ、貴様は今母親を信じてはいないのだろう」
「どうして?」
信じてるのに。お母さんの言うことは正しいのに。知っているのに。壁や天井が回転を始める。
「さっき、『信じてたから』と過去形を使っただろう」
ぐるぐる回る世界の中で、藤色の双眸だけがまっすぐこっちを向いていて……。
「っ、と」
思った通り、ソファにこてんと倒れて寝入ってしまった童女に毛布を掛けた。ゆるゆるとため息をついて、喉が渇いたので奥の部屋に行く。コーヒーメーカーに伸ばした手が止まる。
そうだ、飲むなと言われたんだっけ。水道水をグラスに注いで一気に飲み干す。鎮痛剤のおかげで今は苦痛を感じない。体が重いだけだ。
眠っている童女の横顔を一瞥する。この娘の言葉には矛盾がありすぎた。まず、いちいちこちらの言葉をまぜっかえしてきて、相当本を読み漁っていることが分かった。
年齢に不相応なほど。占いを信じないとも言っていた。現実的な性格なのだろう。
だが、母親に家にいるように言われて、それをそのまま守ってきている。反論もせず。大きな矛盾だった。
本を読んでいるなら、何も外は危ないという言葉を――それはある意味正解なのだが――鵜吞みにすることはないように思われる。
実際、ちょっと危なかったようだがここまで無事にたどり着いている。それに本人にも指摘したが、「信じてたから」家にいたと言った。
本当に信じているならそんな言い方をするだろうか。信じていないのに魔導師を父と呼んだ。これも矛盾する。
おそらく自分の中で生まれる矛盾を押し込めてきたのだろう。鼻の上にかかっている髪を払ってやる。この髪も長すぎる。相当重いはずだ。
同情する理由も情けもないが――いや、娘かもしれないというのがあったっけか?――哀れと言えば哀れだ。
「……七歳だったな、貴様は。だったら俺の娘かもしれん。もしそうなら謝ろう」
呟いた。聞こえないのを知っていて。事実に違いないがこの発言も矛盾だな、と思う。だが心当たりがないというのも事実なのだ。
――5年以上前の記憶がない。
正しくは、あるのだが、ない。5年以上前のことで覚えているのは軍で受けた訓練とそのときした仕事だけで日常の記憶は一切ない。メンゲレにしてもぼんやり同僚だったことが分かっているだけでそれより前の話は分からない。
だからイルマが七歳なら可能性はある。
いや、ないのは5分以上前か?彼は彼自身の記憶が第三者によって書き換えうることを知っている。今ここで仕事をしているというのも、ついさっき誰かが彼の記憶をいじってそういうふうにしただけで本当はそうではないかもしれない。
朝食だって本当は何を食べたかわかったものではない。食器も洗ったし冷蔵庫の中身も減っているけれど、そう配置した何者かがそう記憶させただけかもしれない。
我思うゆえに我ありの唯我論を展開しようにもその我とやらが信じられない。
矛盾だらけなのはお互いさまか。近親感を覚えて頬を緩ませる。なら、せめて真実が明らかになる一週間後まで、それなりに親らしく振舞ってやろう。
と、思ったその頃だった。
「すまん!ラーメン一杯奢る!」
「……空気を読め」
精密でも何でもない簡易的な検査で「100パーセント他人」の判定が出たらしく、その日のうちにメンゲレが頭を下げに来た。うゆうゆと子供が起きる。
「んー……何?」
メンゲレは子供にもう一度、できる限り平易な言葉で、滾々と説明した。そんなに簡単に言おうとしなくてもこいつは理解するだろうに。何といっても活字中毒者、脳内で変換さえすれば意味が分かるはずだ。
「何だか残念だなあ。おじさんがお父さんだったら嬉しいのに。……あ、そうだ!」
きゅっと何かが太もものあたりに巻き付いた。首を巡らして下を見ると、イルマがまとわりついていた。巻き付いていたのは子供の腕だったらしい。
「何だ?」
「私、おじさんの弟子になって、魔導師になるよ!」
事務所に嵐が訪れた。
「ねーねー、おじさんのことししょーって呼んでいい?」
「それを言うなら師匠だな。発音が違う」
わざとです~。シチューを口に入れる。なかなかうまい。このおじさん、一人暮らし長いのかな。
「だってししょーって、名前代わりに呼びたいから。師匠、だと単なる役職じゃないか。だから、あだ名でししょーだよ」
いいでしょ?男は反応せずもっちゃもっちゃと口を動かしている。シチューは白飯にかけて食べる習慣があるらしい。上品でないからやめなさいと母は言っていたが、家の中なら気にすることはないのか。
「……ねーってば、ねー」
「うむ、いいだろう」
「ひっ!?」びっくりしてイルマは身を引いた。メンゲレの気持ちがちょっとわかった。「い、今のタイムラグって何なの!?」
「咀嚼していた。食べながら話すと見苦しいからな」
「あっ、そ、ソウナンダ」
気にはしていたらしい。挙動不審になるイルマに師は笑みを向けた。
「食べたらさっさと風呂にはいれよ、チビ」