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病み魔法使いの弟子  作者: ありんこ
梅雨前線
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あるはれたひに。

回想です。久しぶりに入れる回想しかしない回です。

 初めて地面を踏んだ。

 硬くて、不思議な凹凸がある。跳ねてみた。音が響かない。フローリングとも畳とも絨毯とも、ベッドとも違う感触だ。黒い。これがいわゆる、アスファルトと言うものなのだろう。

 変なにおいがして、埃っぽくて、初めて見る太陽がぎらぎら照り付けている。思わず目を細めて、少女は小さな手をかざした。赤く血管が透ける。

「聞くと見るとじゃ違いすぎるね……うわ、眩しい」

 時にイルマ7歳の9月、師と出会う前の記憶である。


 ある朝起きると、母親がいなくなっていた。

 いつもいるはずなのに、寝室にもキッチンにもダイニングにもリビングにもバスルームにも書斎にもトイレにも、おおよそ少女の行動が許された範囲のどこにもその姿はなかった。

 ただ髪はふたつ、三つ編みにされていて寝る前から起きる前までのどこかにはまだ彼女がいたことを知る。

「おかあさあん……朝ご飯はどこぉ?私、作れないよー……本で読んだだけなんだもん」

 包丁は持ってみたがどうしたものか。

 首をかしげていたら大きな音がして、イルマはばっと振り向いた。父親が帰ってくるときのような変なにおいがした。玄関かどこかのドアが外側から開いたのだろうと思った。驚いてそこへ駆けつける。

「■■■■■!■■■■■■■?」

「■■■■■■■■」

 何人もの男たちがコルヌタ語で、何か言っていた。しかし物心ついてからというもの、直接両親以外の人間を見たことのないイルマは、すぐには聞き取れなかった。

 とりあえず笑みを浮かべて首をかしげる。

「■?■■■ん、どうした?」

「あんたの親どもはどこ行ったんだ?」

「わかんない」声の大きさの加減がよくわからないまま言った。

「朝起きたらお母さんがいなかった。お父さんはいつも、いつの間にかいなくなってて夜になったら帰ってくるの」

 男たち――サラ金の取り立てに来た業界の人は喉の奥で唸るような音を発して、考え込んだ。しばらくして夜逃げなんじゃないかと言い出した。

「お嬢ちゃん、着替えてきな。ちょっと連絡するところがあるから」

「え?うん」

 業界の人にも拘らず妙に紳士的な対応をする相手に、といっても本で読んだ知識しかないから、イルマの勝手なイメージなのだが、何だか不思議な気分でイルマは背を向けて寝室のクローゼットに向かった。

 服は自分で着ていたから大体わかる。えーと、今の季節ならこれ。見当をつける。

 それから、包丁を近くのスツールに置いた。

 服を脱ごうとしたらかさっと紙の質感があった。ポケットに何か入っている。取り出した。封筒?母の文字で「どうしても困ったときにだけ、開けなさい」とあった。わかった開けない。

 新しく着た服のポケットに雑に突っ込む。


 匿名の通報とやらでイルマは児童保護施設に行くことになった。がちゃがちゃとうるさい場所だった。太った中年の女に、これから皆家族よと言われた。少女は首を捻った。

――それは物理的な意味で?それとも一種のレリックなの?

 知らず口から滑り出たその言葉に職員と子供たちが気味が悪そうな顔をした。それから一人だけ違う部屋に移された。

 知ってるんだ、こういうところに連れてこられたときはここの外で何か秘密の話をしているときなんだ。ミステリー系の小説にはよくある話だ。

 ドアにそっと耳をつける。

「……やっぱりあの子おかしいわ」

「何をいまさら、だから回り回ってうちに盥が来たんだろ?なんたってヤクザ相手に怯えもせず、包丁片手に微笑んでみせたっていわくつきだ。その代り国からの援助金は大きい」

「だからって……うちカウンセラーなんて雇えないわよ?」

 言葉の意味を考えた。かうんせらー。カウンセラー。脳内で文字に変換する。ヒットした。前に読んだ本に出て来た言葉。

 えっと……頭がおかしい人にあてがわれる人だよね。本によると。つまり私は頭がおかしいと思われているんだね。それは『よくない』ことなんじゃないかな?

 イルマは極めて冷静に部屋の中を一瞥した。壁。壁。机。椅子。クローゼット。窓。窓がある。縦長で幅がないが、イルマなら通れる。開けてみた。ストッパーがかかって通れるような幅に開かない。

 うーん、たぶんこれが逃亡手段として最適なんだよね。何とか突破できないかな。

 ガラスを割るのはちょっと、音が出るし破片が怖い。さっき見たときクローゼットがあったっけ?開けてみる。

 金属製のハンガーがかかっているだけで何もない。鈍器のようなものは一切。ハンガーはいわゆる針金ハンガーと言うのとは異なり、軽いが肉厚でごついものだ。

「あ」

 ハンガーを一本いただいた。ストッパーは窓枠の下側に出っ張りがあって、それで窓を止めるものだ。出っ張りの下には鍵穴のあるプラスチックの本体がアルミサッシの上に浮いた船のようだった。

 爪の先で本体とサッシの間をカリカリと削る。指で押したら微妙に動いた。こんなもんか。ハンガーを出っ張りの下側に引っ掛ける。ぐっと押す。ぱりっと音がして、明らかに何か外れた。よっしゃ。そのままてこの原理で捻った。

 ぱきん、と思ったより大きな音がして器具が外れる。ちょっと急いで行動しなくては。窓を開けて下を覗き込む。四階。

 高いところは怖いもんだ。飛び降りたらまず助からない。

 窓の外の壁に、コンクリートの出っ張りがあった。平らだ。この上、立てる。下は林。おそらく人工。出入り口は真逆。

 ハンガーをクローゼットに戻した。ついさっきまで座っていたパイプいすを手に取って、たたむ。通る。よし。椅子をいったん部屋の中、窓側に立てかけて窓の外へ出た。ちゃんと出っ張りの上に立てた。ほっとする。手を伸ばしてパイプいすを手に取り、引き寄せる。

 やることはひとつ。ミステリーにあった簡単なトリックだ。まあまあ効果的と予想する。

 出っ張りの上を慎重に横移動し、窓からの視界を外れる。他に開いている窓はあるかもしれないがあんな細工があったのだからないと思うのが当然。

「っ、きゃあああああああああああ!」

 息を整えて、腹の底からありったけの声量で叫び、同時に椅子を下の雑木林に投げ込んだ。

 悲鳴に気付いた職員が部屋に入ってくる。ばさばさばさっ!椅子の落ちた音。男が窓から顔を出して、下を見てクラッとして、戻った。案外気づかれないものだ。中で騒ぎが起こる。ばたばた部屋を出ていく音。

 電話などは部屋になかったから通報するにしても別の部屋に行く必要があろう。部屋の中に戻った。部屋に入るまで通った道を、途中で外れる。

 一台しかないエレベーターで上がってきたのだ。鉢合わせでもしたら目も当てられない。近くに階段があるはずだ。

 本によれば。

 階段はあった。それもらせん階段だ。靴を脱ぐ。こういう場所はトンネル効果で音が響くって本に書いてた。足音はできるだけ小さくしなければ。

 クロスワードパズルに熱中する警備員の前をそっと通り過ぎる。外へ出た。あとは急いでこの場所を離れるだけだ。全速力で走る。走り去る。

 だがここに一つ、本で読んだことのないものがあった。施設は山の中だったのだ。

――どうする?

 少女はこうなった時の対処法を知らなかった。本には出てこなかった。歩く以外の選択肢はない。

 大きな道に沿って行けばいつかはどこかに出るはずだ、と思ってひたすら歩いた。脚は疲労した。無視する。

 日が暮れたころ、町にイルマが現れた。しかし困ったな。公園で寝ちゃう人もいるっていうし、私もそれでいいかなあ。公園がまたいいところにあった。

 ベンチに腰を下ろす。

「■■■■■■■■■■■■?」

 知らないおじさんが話しかけてきた。素面だったそうだが千鳥足のような足取り。

 イントネーションからボルキイの言葉なのはわかるが、早すぎて聞き取れない。読むのと書くのはできるんだけど、とコルヌタ語で言って、近くにあった棒で地面に書いた。

 読み書きはボルキイ語の本を何度も読んだからできるのだ。

「私、ボルキイ語は読み書きならできるの」

 おう、というような感嘆の声を上げてよろよろと屈みこみ、おじさんも地面にかりかりと書き込んだ。あまりきれいな字ではない。

「こんな夜中にどうした?両親は?」

「お父さんとお母さんは夜逃げしたの。さっきまで施設にいたんだけど、精神病院とかに入れられそうだったから出て来た」

「施設?山の上のか?」

「うん」

 おじさんは困ったような顔をして、それからポケットから薄汚れた半カウロ硬貨を取り出した。近くの公衆電話にそれを押し込む。しばらくして電話がつながったらしい。ああだ、こうだと何か話している。

 で、一方的に電話を切った。ベンチのところまで戻ってきて、地面に書く。街灯のおかげで字はまあ読める。

「今知り合いに電話をした。こういう事態の収拾に長けた奴だ。すぐに迎えが来る」

「わざわざありがとうね、赤の他人なのに」

「いやなに、あんたのような奴を放っておくと俺の寝覚めが悪いのよ」

 筆談笑していたら、エンジンの音を響かせて大きな車が公園の前に止まった。

主人公の人格がどこから来ているのかわかったりわからなかったりの回です。

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