再度、ストーリー
サイドストーリーです。主人公たちの知らないところで起きている話です。
明るい図書館の中、ページをめくる音が響く。外は土砂降りだが、中には響いてこない。今日は日曜日。時期的に受験生もいないし、混み方としては中の下くらいのものだ。小さい子供を連れた母親なんかもいる。
だが、ここは――奥まったところにある歴史書のコーナーには、ほとんど人がいなかった。本を読めるように大きなテーブルが設置されているが、そこにいるのは何やら教授風な白髪の老人。それから、ああ、もう一人いた。
11歳の、リアル女子小学生だ。肩につくくらいの金茶の髪を二つに振り分けている。辞書と参照しながら矯めつ眇めつ分厚い本を読む姿はなんとも健気なものだった。
老人の孫どころかひ孫にすら見えるが実際は赤の他人。彼岸の近そうな老人とは逆に、一度彼岸の住人になった娘。
「これだわ……実存の魔導師」
何を隠そう彼女こそ、いつだったか食中毒で死亡し、そののち賽の河原で石を積み、イルマとかいうどこぞの死霊術師に蘇生された少女、ラナなのだ。
すぐにラナはページをもう一つめくって、そこに載っている顔写真を見た。一色刷りで色はよくわからない。その上少し若い時の写真のようで、記憶とは微妙に顔つきや髪型が異なる。
だが間違いない。女とすら見える奇麗なハート形の輪郭。墨で引いたような形の眉の下に理知的な切れ長の瞳。繊細な鼻梁はあまり高くなくて少しのっぺりした印象。唇は薄いが、ふっくらと柔らかそうに見える。
まさに、河原にいた亡者そのものだった。少女はしばらく写真を見ることに執心していたが、不意に思い出したようにその下の文章を読み始めた。
■■■■年、出現。出生地、続柄不明。当時推定15歳。そうか、昔のことはわからないってそういうことか。記憶や人格を改竄しながら兵器・事務員・実験動物として14年間使用。
「実験、動物……?」
心理・精神などの学術分野に有用なデータを数多く提供する。その後不治の病にかかったため破棄する予定だったが、通常に解雇。
帝都の某所で6年を自営業として過ごす。病理解剖の結果、年齢は35歳であったと思われる。
ざっくり書かれた略歴にしばし言葉を失うが、気を取り直して実験データのページを見ていく。
■日、■■■投与。意識混濁。30分間■■のち、自我崩壊。人格を上書きする。■日、幻術を用いて■■■■■の■■■を自分の記憶だと思い込ませる。
1か月放置。修復不能な心理外傷を負い使い物にならないため記憶を消去し人格を変更する。■■日、■が■■■に■■したと思い込ませることに成功。おそらく■■■■■■の■■が影響しているものと思われる。
■日の■■時■分より■■■を実施。43回目で成功。■■■■な人格に置き換える。■■日、記憶に矛盾が発生。■■■■■■■を発症したものとされる。同日、該当部分の消去と人格の――。
ばさっと本を閉じた。狂っている。ところどころの単語が頭に入ってこない。どうして、どうしてこんなことを。あの人は普通の、……どんな人だ?
ラナは驚いて本のページをもう一度繰った。
(おかしい……私、さっきどこのページを読んで……)
とてつもなく気分が悪くなったことは覚えている。だが、それはどうしてだろう。確か、死んでいた時に出会った男の素性を調べて、魔導師で、顔はどんな……わからなくなっている。特徴があったはずなのに思い出せない。
あんなに話をしたのに。何の話だったっけ、お父さんの話をしたような気がするけれど。好き、だったような気もするけど。記憶に靄がかかっているのとは違う。記憶が、ディゾルブのようになって端から消えている。
見えない何かに蝕まれるように。
でも一つだけ覚えていることがある。イルマ。あの女。きっとあいつは覚えている。あの人のことを覚えている。ずるい。憎い。憎い。あいつだけは許さない。子供っぽい嫉妬と憎悪が溢れ出す。
弟子としてイルマが何年『彼』のそばにいたか、その経緯も、予想はつきそうなもので、分別が付きそうなものだったが大人っぽいと言っても何だかんだで小学生、分別など着こうはずもなかった。
そうだ全部あいつが悪いんだ。殺して脳を食ってでも記憶を手に入れてやる。
飛行機も二足歩行のロボットも、全部最初は子供の思い付きだった。
オニビは夢を見ている。天国の死者にのみ許された特権だ。特権だが、彼は呪いだと思っている。夢を見ると言っても眠っている間に幻を組む脳はもう存在しないのだから当然だが、見ることができるのは過去の記憶だけである。
若かりし頃、というか未成年の頃のオニビが一人、トマトの世話をしている。昔からトマト畑が唯一の居場所みたいなものだった。
幽鬼のような見た目で学校に行っても浮きまくっていたのだ。妹は普通だったが、それゆえに兄への風当たりはきつかった。トマトをいじっているとそれも忘れられた。
もうすぐ日が暮れる。農作業用の手袋を外した。
「グラバー、帰るぞ」
名を呼ぶと、ソレはまっすぐオニビのところへやってきた。おおよしよし、と頭を撫でる。グラバーはぴすぴすと鼻を鳴らして、大きな鼻面でオニビを押し倒した。
こらこら。笑いながら立ち上がる。グラバーの首輪につながっているナイロン製のロープを掴んで家路を急ぐ。
オニビの家は豪農だった。名字を失うくらい落ちぶれに落ちぶれていたが、一応昔は貴族だったらしい。無駄に広い家には地下室があって、そこにグラバーが飼われている。
グラバーは犬ではない。魔物だ。しかも、もう千年以上は生きていて、700年くらい前まではこの近辺一帯を恐怖に陥れていたほどの魔物である。
ある時貴族に雇われた傭兵団と魔導師数人により捕えられ、以来300年近く我が家の床下にいるのだ。
別に怪しげな槍とかで縫い留められていたわけではない。翼の皮膜を切って、尾の先のスパイクみたいのを切り落として、首輪をつけて床下に押し込んだだけだ。
その種名をサラマンダーという。グラバーの場合は翼に切り目を入れたらしばらくして大分従順になったそうである。オニビが生まれるころには牛馬の代わりに農作業に駆り出されていた。
記憶はそこからしばらく早送りになって飛ぶ。取調室だ。
「……DNA鑑定の結果、あなたは半人ではなく半魔だということが分かりました」相手の顔は覚えていない。「これがどういうことか、わかりますね?」
「ええ、僕が解放されないことだけはわかってます」
殴られた。殺人犯がふざけたことを言ったからだろう。俺は無実で、冤罪なんだけど。見た目が怪しいって理由で引っ立てるような奴らだ、もう知らね。
この頃のコルヌタは独裁政権で、警察官と言えば好かれる職業の表でも作ればワーストワンだった。
「ちなみに、何が混ざってるんですか?」
「サラマンダーです。あなたの前の世代でも交配が行われた可能性が高い」
世界が終わったかと思った。サラマンダー。そうか、父さんは父さんじゃなかったんだ。グラバーが従順で懐いてくるわけだ。
(俺は、本当の父親を)
心を閉じた。ゾンビのようになって三年牢屋で重労働などに強制参加させられながら生きていた。あの日外に出ることになるまでは。彼女に出会うまでは。
他の仲間と同様、第一印象は決していいものではなかった。天敵だと自分の中の何かが告げるほどだった。
「ねーオニビ」群青の瞳の少女が顔を覗き込んできた。「ボクのこと、苦手?」
「苦手っていうより、忌まわしい感じだ」
少女はにんまりと笑った。
「ボクと同じだね!本能がキミを見るたびに危険信号を発してるんだ。殺せ殺せって。でも好きだなあそういうの……興味あるなあ、掻っ捌いてみたいなあ」
「俺もだよ」
魔族の彼女の愛情表現が理解できた自分は人間じゃない気がした。
(ううん、人間だ)
なぜなら天国にいるのだから。魔物は魔神の元へ還ってゆくはずだ。
――そう、彼女もいつかはここへ来ない。
毎回それを深く深く確かめさせられて、半身でももがれたような気持になって、もう二度と夢など見るまいと思って、……しばらくするとまた夢を見ている。
過去にただ甘えているだけでしかない、目が覚めた時の羞恥心もひとしお、それでもこの特権とやらにすがってしまう。そろそろ転生でも、と思うが一歩はいつまでも踏み出せない。
ぬるま湯に浸る頭の中に、電子音じみた高い音が響いた。重さの存在しない瞼を開ける。いつもと変わらない天国の景色。死者。天使の行列と、女神の輿。それらは目に入らない。
――あの子が喚んでいる。