迷宮内はお静かに
また回想しません。そろそろ回想入れてもいいかなあ。
「よーしそろそろ五分前だ。行くよー」
「はいなー。帰ってくるくらいには乾いてるといいなあ、マント」
二人はまるでちょっと遠いところの店にでも行くようなノリで、世界最大級のダンジョンに向かったのであった。もちろんもっと大きなダンジョンもあるのはあるのだが、一二を争うことに変わりはない。ないはずだ。
入り口は前に来た時と変わらないように見えた。冷たい雨が降っている。衛兵が番をしているところまで同じだ。
違うのは師が入り口の前で咳き込んでいなくて、隣にいるのがユングだという、それのみだ。
手続きを済ませて洞窟内へ足を踏み入れる。あの時も雨だった。足元が滑るから気を付けるように、と師が言った。わかってるよ。ユングにも注意を促しておく。
まだ水没は下層までという話だったが、流れ込む雨水が足元を浸しているのだ。ブーツに穴でも開いていればすぐに浸水して体温を奪っていく。
体温を奪われれば内臓機能が低下するし、免疫作用も働きにくくなってしまう。それに何といっても魔界に通じる迷宮、未知の細菌ぐらいいてもおかしくない。だから靴の手入れは欠かせない。
あちこちに鉱物の結晶が顔を出して、自らが内包する微小な魔力に朧げな明かりを鍾乳石の突き出た天井に、ざらざらした壁に、1センチは深い水の流れる床に、無気力に投げかける。
おかげで暗くはないものの、大きく影が落ちてただ暗いより見通しが悪い。
地上にいるときのように、完全に視覚に頼ることはできない。耳を澄ます。自分の鼓動と濡れた足音だけ聞こえた。
まだ何もいない。太陽光に含まれる赤外線を嫌う魔物は多い。
ぴちゃっ……ぴちゃっ。何かが遠くで走り去ったようだ。当然自分たちの足音も、向こうに聞こえているだろう。
松明のようなものは使わない。迷宮内の換気があまりよくないからだ。こんな入り組んだ場所で一酸化炭素でも大量発生した日には三途の川を特別料金で渡れる。
懐中電灯は使わない。影が濃くなって見づらいだけだ。魔法で照らさない。魔力がもったいないのだ。
それで、暗視ゴーグルというわけだ。
「ちょっと先生、ずるいですよ」
「ずるくないアルラトホテプよ。スリは大人のたしなみなんだよ」
洞窟内では普通、話し声は反響するのだが、広いためか、クリスタルが音を吸収するためか、地上よりむしろくぐもって聞こえた。
だが大声で話そうとは思わない。声に反応する魔物も少なくない。
「犯罪ですよそれ」
「ばれなきゃ正義だよ。それにもともと目が悪いユングが眼鏡を外して暗視ゴーグルをつける意味ってある?」
「ないですけど……ちょっとそのファッションはやめません?マントに暗視ゴーグルって。違和感がものすごいです」
「ちぇー、わかったよー」
視界の端で何か動いた。足を止める。
「ユング、しーっ」
「?」
巨大な蜘蛛が通り過ぎて行った。ユングが息をのむ。魔物の一種だ。そんなに深く入ってないのに、珍しい。やはり何かが起きているということか。
その姿が見えなくなるまでじっと待つ。いなくなったところで歩き出す。大蜘蛛は弱い魔物だが、毒があったり糸を吐いたり本当にめんどくさいのだ。硬いし。
あと種類によっては仲間を呼ぶんだっけ?模様とか体長で細かく分類されるらしいのだが、イルマには見分けられない。
対策も大体皆同じだし、見分ける必要もない。
「……先生、今のは仲間を呼ばない奴です」
「そうなの?」うんうん。ユングは見分けられるらしい。そういえば魔物の表情とかも読めたな。
「それは知らなかった……ま、できるだけやり過ごすに越したことはないよ。魔力は温存しないと、ね」
「はーい」
中層部の一番深い反応から虱潰しにしていく。中層へ降りる竪穴がいくつか見つけられている。そして地図にも載っている。
ただしこのルート、魔物が多くすべてを回避するのが難しい。とはいえ横穴の緩やかな傾斜に任せて降りれば時間を食う。もちろんそのほうが安全だ。
だがしかし、イルマは直行する。
「この穴から降りると中層に直行、さらに反応の近くまで瞬間移動って寸法だ」こつこつ。杖で竪穴の入り口を叩く。「どう?来る?」
「愚問ですねえ。先生が行くなら僕も行くに決まってるじゃないですか。だってそうでしょう?」
ユングは目を閉じて耳を澄ました。竪穴の底から羽音のようなものが聞こえる。どんどん近づいてくるようだ。
「それに、今僕らが退いたとして……彼らが黙ってないでしょう?」
イルマはその言葉に不敵な笑みを浮かべた。
「えー?そうかな?」
図鑑が好きでした。虫を見るとどういう種類なのかわかって楽しかったのです。
……チャバネとクロゴキの違いなんかわからなくていいことに最近気づきました。