胎動
ろくな人がいないって?気のせいです。
潮の香りに似た臭気で、イルマの意識は現実に戻ってきた。
寝てたみたいだ。雨音はしない。止んだのだろう。ところにより見られる晴れ間っていうのはこれのことだ。カーテンの隙間から入る光の角度からして、午後三時か四時くらい。
この臭いはよく知っている。イルマはタバコを吸いたい人のようにそっとバルコニーへ出た。ふー、とため息をついて手すりに背中を凭せ掛ける。一つ上のバルコニーが見えた。
にやりと笑う。
「あったりぃ。ホテルの人に言わなきゃ」
笑う少女の頬に、ぽたりと一滴まだ温かい液体が落ちてきた。小指でそっと拭う。
そのまま、同じ指で真っ赤な口紅を注した。
魔神は冷たい石の壁によりかかるようにして座っていた。
体が重い。顔が火照るようだ。立つのも億劫だ。横になる、横になるともう元の姿勢に戻れない気がする。
戻れなくても誰にも文句は言われまいがなぜか心の底で拒否する。封印の石室に居座る巨大なコンピューターの筐体は、今は動いていない。
今あんなのやったら、酔う。
「う……」
ここ半年近く何も口にしていないから何も出ようはずがないのだが、こみ上げる吐き気に口を覆う。三つ編みがほどけて広がる長い髪が血の海にも見えた。
しばらく結い直していない。結い直すにしても、毛髪の一本一本、手指、それらがすべて果てしなく重いのだ。
何が重いって身重なのだが、もちろん妊娠しているという意味ではない。ある意味ではそうだが、彼の選んだ肉体構造上それは無理だ。
当然のことながら、魔法を使うと魔力を消費する。ではその魔力はどこに行く?人間界では長いこと学者の頭を悩ます難問である。日夜努力と研鑽が重ねられている。
しかしながらこの石室では現在進行形でその難問の答えが展開されていた。
コールは腹の底にモーニングスターでもねじ込まれるような激痛に身をよじらせた。許容量が静かに、だが確実に飽和していく。
ここで彼の称号を思い出していただきたい。そう、魔神である。魔力なる面倒くさいものを与えてくだすったのもこのお方である。
魔族も魔力も、やがては創造主であるコールの元へ還ってくるのだ。
女神は人間というか、まともな生物を作ったが、放っておけば彼女自身に還元されていただろう。彼女は天帝と提携していて、天帝が死後の世界を用意したためにそちらへ流れているに過ぎないのだ。
逆にそうでないと人間界の放棄などできようはずもない。
だから魔族は人間のような転生をしない。コールの中でぐちゃぐちゃに溶けて混じりあってしまう。
転生するにしてもコールの胎内を通り抜けて再び似たような魔物になるくらいで、前世の記憶があることが多い。だからこっちは彼にとって苦痛でも何でもない。
問題は知的生命体の数が増えるほどに、魔法が使われるほどに増えていく魔力の方である。
「ぐ、……うあっ」
当初の見通しではこんなに世界全体の魔力が増えなかったはずなのだ。コールの中の許容範囲というやつもそんじょそこらの人間どころか神の比ではない。
今世界にいる65億人前後をすべて純粋な魔力として吸収したとしてもまだ青天井。余裕は十分あると思っていた。
まさか、人間が一部亜種みたいな何かに進化するとは思わなかった。無茶苦茶だと神ながら思う。あるものは魔力で物質を具現化、あるものは脳の一部などが人間ではありえない構造に進化。
他にもいろいろ。っていうか半魔って何だよ。知性はないけど強い魔物を捕まえます?その魔物と代々の女児を掛け合わせ続けます?女児とその魔物は親子であり配偶者であり祖先でもあり祖父でもあります?
作れそうな余地を残したこっちも悪いけどねえ、作り方からして頭おかしいんだよ。ウルトラスーパー近親相姦じゃないか。たまに文句を垂れてみるもまだいる。けっこういる。
半魔は魔物となら生殖可能、って発見した奴を殴りたい。順調に子孫を残しやがって。
――死ねばいいのに。
そういう相手にはこうして最大級の賛辞と祝福を与えるのが彼流だ。彼はこの世界に存在するすべての生命を愛している。それがどんな形であれ愛は愛。
激痛さえも彼の中ではわが子の蠢動する甘美な感覚だ。臨月の妊婦が、あら、この子今お腹を蹴ったわと言うのと大体同じである。
つまり、『わが子』がいるのだ、今。
「やっはろー」天井から浸水があった。ゆっくり人の形をとる。オフィーリアである。「だいぶとやられてるねえ」
コールは力なく微笑み、娘を手招く。
「ええ、今度の子は……ずいぶん、元気がよいようです」
ふうん。感慨も何もなく言うと、オフィーリアはさっそく激痛に身悶える父の膝に頭をのせて身を横たえた。
「やっぱり、魔力の質って進化した知的生命体ほど上がるの?」
「そのようです。加えて、別の原理で進化した者がいるようで……まだ、そちらのことはよくわからないのですが」
別?娘の質問には答えられなかった。全身が大きく痙攣する。獣のような咆哮。オフィーリアは驚いて身を起こし、その様子を眺めた。
のたうち回る、というのではない。今は手当たり次第に周囲のものを破壊しようとしている。理性が飛んでいるのだ。
「ああ、駄目だこりゃ。明日まで人語が通じない」
のんびり呟いて凶悪な一撃をかわし、水の表面張力を利用して天井に貼りつく。こんなに暴れていてスーパーコンピューターには傷一つつけていないあたり実の娘としてはあってほしくなかった奇跡である。
オフィーリアも強力な魔物ではあるが、魔神の一撃となるとミンチでは済まない。そそくさと石室の外へ逃れる。
次は弟かな、妹かな?しばらく考えて、彼女は首を傾げた。なぜか妹のような気がする。