うちに帰る秋
とくに断りはありませんが回想です。そんなに長くも暗くもない、はず。
待っていたのはごく当たり前のように、何のひねりもなく、あの日夜逃げしたイルマの両親だった。
服装など微差はあるが、さほど変わったところは見受けられない。何年振りかになるわけだがイルマは母のほうへ駆け出さなかったし、逆にそっぽを向いたりもしなかった。師と手をつないだままだった。だが両親のほうは見事に反応を見せた。
「イルマ!」
女性に抱き着かれて戸惑う。そういえば母親とは娘を愛するものだって本に書いてたっけ?感動の再会ってやつだな。肩越しにちらと見ると父親である男性はあらぬほうを見ていた。
置き去りにした娘が目の前にいるからか。因縁の再会ってやつだな。ていうか、『あの日夜逃げした』って文章としてちょっと変じゃないか。『夜』逃げてるのに『あの日』って。
「ふふ」
ねえししょー、今思いついたんだけど、と話しかけようとして辞めた。抱擁する女性と子供を見ている男の顔には戸惑いと、明らかに恐怖の表情が浮かんでいた。ししょーどうしたの?擦り寄って聞きたかったが、遠い。母親の腕が邪魔だ。じゃあ手を握ろう。
そうだ、さっき抱き着かれた時にししょーの手を離しちゃったな。驚いた形のまま空気を出し入れすることを忘れていた唇がわずかに震える。細く長く息が吐きだされた。微かに震えている。
邪魔な腕がまだ何か言っていたが聞いていなかった。じわりと汗を浮かべて、緩慢にイルマが握っていたほうの手にコートの裾を巻き込む。同時に戸惑いを押し込めて、人形のような顔にゆっくりと作り物めいた笑みを浮かべた。
「立ち話も……難ですから。上で。お茶でもどうですか」
一言一句押し出すような発音だった。やっと母親が離れた。肩口が濡れて気持ち悪い。お客さんが帰ったらししょーに甘えて着替えればいいだろうが馬鹿とか何とか文句を言わせよう。
でも、客はなかなか帰ってくれないのだった。
「ねーえ」
せんべいをねだってテーブルへ身を乗り出す。いつもと角度が違うな。いや、ああ、そうか。師が向こう側に座ってるもんな。何か客と話しながら淡い色の両目が眇められた。白い手がすと伸びてせんべいの入った木の器をこっちへ押し出した。
いや違うんだよ。
納得いかないまま個包装を破いて食べたいわけでもないせんべいを食む。味なんかよくわからない。おいしいんだろうけどさ、別にお腹すいてないし。せんべいの気分じゃないし。大体さ、お客さんの前で飲み食いなんかしちゃダメじゃないか。
ししょー馬鹿なんじゃない?
いつものように注意してほしかった。お前さっきアイス食っただろうとか、後でなとか。だって意地汚いって。お客さんいるんだよ?大体これイルマが食べる用に置いてるもんじゃないだろう。
それなりに大事なお客さんが来たときに出しといて、食べるかどうかはともかくとして、『おもてなし』なイメージを演出するためのものじゃない?そんで月末辺りに賞味期限を見て、賞味期限は外装のそこだけ切り抜いて冷蔵庫に貼ってるからわかるんだ。
過ぎてるかあと一日かなら、食べるかって。お客の腹を下すのはまずいって。世紀単位で使い古された醤油とザラメの甘じょっぱい味が嬉しくって。
しばらくして話はついたらしい。母親は師について階上へ上がって、そういう客はたまにいる。
書斎で大量にため込まれている本の中には絶版とかそんなんでもう読めないような珍しいのがあるらしくって、主に師の機嫌や体調に左右される形で売り飛ばしたり必要なページだけ撮影させたり近くのコンビニでコピーさせたりしている。
事務所には父親とせんべいを食べているイルマの二人きりだ。三枚目。やけ食いに近い。多分あとでめっちゃ叱られる。晩御飯抜きかもしんない。
戻ってきた母親は何か荷物を持っていた。段ボール。一人で持ってるから本らしくはない。どうでもいいけど。早く帰ってくれないかな。暑いし。ししょークーラーつけ忘れてる。
半ズボンだから合皮の座面が汗でやたら貼りつくし。気持ち悪いなあ。気持ち悪いといえば何なんだよこのおっさん。待ってる間に何回咳払いすんの。うるさいよ。黙って待てないわけ。
そういえば父親だった。これ。
「ありがとうございました」
母親に手を引かれてうちを出た。ゆらゆらと歪んだ夕焼けの中に倒れそうに消えそうに師が立っている。高架と電線の黒い影を背負って意外なくらいに痛々しくて、か細い。
傷んだ髪は夕暮れの光に貫かれてほとんど影を落とさない。その足にはアスファルトは硬すぎる。戻って。椅子にでもゆっくり座ってて。晩御飯私が作るから。カーブミラーに反射した逆光で顔は見えない。
でもこっちを見ているのはわかった。
見送っている。家族連れを。イルマを。客を。
やっとわかった。
(お客さんは私だったんだね)
帰ろう。見覚えのない我が家へ。喜んで。
自分の家ってどこなのでしょうね。