イッキ
ダメ・ゼッタイ(ジャンプ)。
帰ってきた街はいつも通りだった。当たり前だ。一日しかたっておらず、何かが起きたということもないのだから。ただ、10月が始まっているだけだ。鬼がやってきて人々を冥界へ連れ去る10月が。
コンビニなんかはハロウィンの準備を始めている。このイベント、鬼にとって冥府に招待する対象外らしい魔物に扮して無事に過ごそうというのがもともとの趣旨だそうだ。
が、実際には連れ去られる人はごくごく少数であり、魔物の被害のほうが切実な問題なので現代では31日にだけ仮装するイベントになっている。
勘違いパーティーピープルが騒いで心がささくれることもあるが、元を正せば割と切実なイベントなのだ。
「ただいまっと」
ひとまず荷物を置いて、ポストに何か入っているようなのであらためる。眉をひそめた。今日はどうやらそういう日だ。乱暴に封筒を握って階段を上る。嫌だね、水より濃い何とやらってのは。
「……え?」
喉仏が上下している。粘り気のある、喉に引っ掛かる白濁を必死に飲み下そうとして。普段ぴたりと閉じている唇は今は太いものに押し広げられて細く細く引き伸ばされ、わずかに震えている。
えずくような喘ぎが時折そこから漏れていた。黒絹を思わせる髪が汗ばんだうなじに貼りついて、まるで彼を引き留める鎖のようだ。目じりには涙の粒が浮かび、悩ましげに顰められた眉が痙攣する。
頬張る容器はマヨネーズのアレに似ているが、非なる――。
「ちょ……ユング何してんの」
あれは、ラードだ。
脳がそう理解したところで回転を辞める。思考を拒否したのだ。少年は光を無くした瞳でこちらを認めると、猶予を求めるように手を差し出した。待てというのか。
「えっ?……えっ?」
やはりこの空間は、何かがおかしい。訳も分からず警鐘と疼痛だけを響かせる頭を抱え、見守る。今それ以外にできることなどないのだから当然か。やがてラードを飲み終えた彼がゆっくりとこちらへ向き直った。
「きぼちわるいです……」
「だ、だろうね……」そっとゴミ箱を引き寄せる。顔色は蒼白というより青そのもの。戻すかもしれない。「どうしたのさ?さすがに今時、動画配信サイトの人でもそんなことやらないよ?」
ユングの肩がわずかにはねた。うぷ、と喉が鳴る。さっとゴミ箱を差し出した。よろよろそれに覆い被さって座り込んでしまう。
ん?ひょっとして吐き方わからんのかこの子?そんなわけはないと思うが見守っていると、しばらくしてけぽけぽ吐くのが聞こえてきた。よしよし。背中を撫でながら問いかける。
「でも、何でまたそんなことしたのさ?」
そう、それだけがどうも解せない。
「……っ!うえ、べっ」喉に残っていたと思しき一口大の白濁を吐き捨てて、責めるような目でイルマを睨んだ。「先生が言ったんでしょ!?」
どうもイルマは「賭けようか」と言い出したらしい。駅まで帰ってきて、そうだ賭けをしようと。これから事務所に帰るわけだけども、手紙が来ているかどうかで賭けようじゃないかと。そしてイルマは手紙が来ているほうに賭けたのだ。
「で、何でそれがラード一気飲みに繋がるのさ?あと正直ここまでのやり取りまったく記憶にないや」
「うっそだー!」
絶望しきった顔でユングが説明したところによると、罰ゲームと言われるだけで心が踊ってしまうド変態に対し、イルマは「じゃあ私が勝ったらラード200g一気飲みしなよ」と半笑いで言ったらしい。
そして帰宅すると、手紙が届いていた。駆け出し、ラードをスーパーで買って帰ってくる。ここまでに要した時間はたったの2分。ポストの前でぼんやりしているイルマを通り過ぎて、合鍵で事務所へ。そしてラードを口へ。
で、リバースして今。
「全っ然覚えてない……」
しかも、それは冗談だったのではないだろうか。本当にやるとは思わなかったんじゃないかな?
「ひどぉい!」
「ごめんってば……」
とりあえず晩御飯のリクエストは聞くよ。そう言ったら瞳孔が開いた。眩しい視線なのだろうか。