よいこの独房 前編
地獄です。寒くなってきたし乾燥するしこの世は地獄です。
風を切る、微かな音が響く。静かな部屋だ。狭い部屋の中でそれは何度も反響し、倦むことなく何度も反復される動きに従って、また新たに生み出される。そして、刃鳴りのほかの音を消していく。
だからここは静かな部屋というよりは騒音同士が打ち消しあう部屋というほうが正しかった。
「何回やってる?」
割り込んだ声に、手の動きが止まった。まだ音はやまない。刀を下ろして姿勢を正し、相手に向き直る。
「さあな。数えていると思うか?」
とぼけた返答に顔を引きつらせ、上官は首を振った。家具の一つもない殺風景な部屋でもあることだし、素振りでもやってろと太刀を渡したのは彼だが、本当にそれだけを延々繰り返しているとは思わなかった。
「時間がわかれば計算できるのだが、それも面倒でな。ただ、こいつは大分俺の手になじんだようだ」
くるくると刀をもてあそびながらニーチェが言った。確かにそうらしい。監視カメラはあるが、この部屋に時計はない。中にいる者の時間感覚を狂わすためだ。
入っている者には、できるだけ長く、無為で退屈な時間を過ごさせる。眠ったら起こす。いわゆる営倉入り、もしくは独房行きだ。そのことを考えると、上官が彼に太刀を渡したのは特殊な措置だということになる。
「上官、俺はここが気に入った」独房行きになっているはずのニーチェは花がほころぶように笑った。「落ち着いて修行ができる。一部屋欲しいな。ていうか、ここに住みたい」
「駄目だよ。虐待になるだろうが。だからってまたやらかすのもなしな……そうだ、修行の成果ってやつ、見せてもらおうか」
上官はイチジクを三つ取り出して、器用に右手の上に積み重ねた。イチジクがゆらゆらと揺れる。ニーチェは動かない。
――余裕だな。
構えもなしに行けると踏んだのか。ものすごい自信だな。失敗されると俺が痛い目を見るんだが、どうせ治るし、これも未来への投資ってことで。
そんな風に考えた時だった。
「ええと、何をどうすればいいのか教えていただいても?」
ああ、わかってなかったのか。よく考えたら当たり前だ。説明してなかった。照れ隠しに、怒った風に顔をゆがめて答える。
「一番下まで刃を振り下ろして、真ん中のやつだけ、重力に対して平行に斬れ。他のはそのままだぞ」
「えぇ……頭おかしい……」
遠慮がちにニーチェは構えた。嫌そうな顔をしているような気もするがそんなわけはないよな。
基本中の基本というか、まだそれしか教えていないのだが、まっすぐ正眼に構えている。部屋を支配していた刃鳴りが消えた。呼吸音が耳に届く。刃先もゆらゆらと揺れている。ほんのわずかな揺れだが、それとわかる。
ニーチェは迷っているのだ。どう斬るべきか。というか、縦に積まれたイチジクの真ん中だけを縦に切るということができるのか。緊張をほぐしてやろうと上官は口を開いた。
「おいおい悩むなよ。別に達人技なんか期待してないぜ。だってお前、素振り始めてまだ1週間も経ってないだろ?あ、そうだ、刀ってのはなかなか切れ味がよくって、うまくやれば切った跡がそのままくっつくとかくっつかないとか……」
話の途中で、ずばっと何かが右手を通り抜けた。上官は無駄に年を食っていない。何の感覚なのかよく知っていた。薄い鉄板が肉と骨を通り抜けたのだ。右手には、イチジクが三つ積まれている。
「……マジにやるか。やれって言ったけどさあ……」
一番上からイチジクを左手で取って、まだ緊張した面持ちのニーチェに差し出す。相手は刀を鞘に納め、そっと床に置いて受け取る。
果たして、二個目はきれいに二つに割れていた。一個目、三個目は割れていない。ニーチェはほっと息をついた。最後のひとつ、上官の右手は無傷だ。しかしと上官は思う。今の手ごたえは少し重すぎた。割れていない一つ目と三つ目をまじまじと見る。
「惜しいなあ。一つ目の皮が切れてる」
「駄目か。行けるかなと思ったのだが」
肩を落としたニーチェの頭を軽く撫でる。やはり覚えが早い。相手を観察することでいつの間にか技術を手に入れていたようだから、正しい修行を教えてやったらもっと早く身に付くに違いないと見込んだ。俺の目ってすっげー。心の中で自分をほめる。
「俺の手を斬らなかっただけでも、斬ってくっつけただけでも及第点さ。さすがに一発目からパーフェクトは期待してねーよ。イチジク食えや。出所だ」