調書
お久しぶりです。気温と湿度が下がってまいりました。風邪に気を付けましょう。
「あー、お姉さん。誤解だよ。実は私、ユングとどのような関係にもないんだ。あいつはうちの従業員でね、部屋が空いてるから貸してやってるのさ。ご飯は何ていうか、物のついでだね」
気がついたら、背を向けた少女をそこにあった花瓶で殴りつけていた。
握った感じは少しざらついていて冷たい。花瓶の中に入っていた水を服の襟元から被る。重たい音がした。濡れた服が乳房に貼りついた。声はしなかった。
「あ、……」
自分の声をどこか遠くから聞いたようだ。ビルの中は妙に静かで、がたんごとん、と電車の通る音がよく響いた。部屋の中、目の前に少女が倒れている。
なんてことだ。
その場の床に膝をついた。ついさっきまでわいわいと喋ったり笑ったり怒ったりして、立ったり座ったり動いていたその体は今フローリングに横たわる。目を閉じ、ピクリとも動かない。
ザビーナと同じ透明な液体に濡れそぼって、対照的に倒れている。薄紅色をしたコスモスの花が一輪、すぐそばに落ちている。
コスモス?
ああ、花瓶に生けてあったのか。きっと殴ったときに飛び散ったのだ。ワレモコウは花瓶のあった机の上に散らばっている。他の花もきっとそこらに落ちているのだろう。
死んでいると思った。少なくとも彼女にはさっきまで動いていたものが動かなくなる現象を他に説明できなかった。しかし一方でその認識は『殴った』『死んだ』から先へは進まなかった。つまり、『殴り殺した』にはならなかったのである。
なぜなら彼女は被害者だから。殺すという行為は害を加えるということだ。そして加害者は足元の泥棒猫のほうだ。被害者と加害者の関係が入れ替わることはありえない。
(だって私は悪くない)
何が誤解なものか。部屋が空いているから貸している?同棲じゃないか。私というものがありながら、浮気。誠実な彼がそんなことをするはずがない。あの女がたらしこんだに決まっている。
物のついでで料理なんかできるものか。ザビーナの知っている料理とはお料理サイトや料理本を参照しながら手間暇をかけて作り上げる愛の結晶である。
それとも、この女は「まずくはなくて食えたらいい」とでも思っているのだろうか?それはもっと許せない。大切な彼に何てものを食べさせているんだ。私なんか手料理の話も切り出せずにいるのに……とまたザビーナは考える。
大体、何の抵抗もなくあっさりと受け渡してくるのも気に入らない。まるで価値のないもののような扱いだ。彼を何だと思ってるの。そして人の話を聞かない。最近の若者って本当に嫌だわ。
「先生?」
呼びかけに反射的に顔を上げる。腕に貼りついていた黄色い菊の花が滑り落ちた。それからやっと自分への呼びかけでないことを思い出す。彼は、決してザビーナを先生とは呼ばない。先生と呼ぶのは一人だけ。
ユングは静かに倒れた少女の首筋に手を当てた。脈を診ていたのだろうが、彼女は首を絞めるのかしらと思った。魔族は敗北者に対して厳しいと聞いたことがある。しかし予想に反して彼は手を離し、スマホを取り出した。絞めてほしかった。
思い出したように、あ、と小さく声を上げてザビーナのほうを見る。
「動くなよ」
驚くほど抑揚のない声だった。動揺がひしひしと伝わってくる。そうよね、でももうあなたが頭を悩ませるようなことはなくなったのよ。
彼はどこかへダイヤルをして、耳に携帯を当てた。どうやら警察と救急を呼んだようだ。ここでやっと、動くなよと言われた意味が呑み込めた。
「わ……私よりその女のほうが大事なの!?」
口に出すと涙が出てきた。
「そういう問題じゃない」
「そういう問題よ!やっぱり二又かけてたのね!最ッ低!」
どんなに叫んでも、ユングは何かがごっそり抜け落ちたような無表情のまま眉一つ動かさなかった。一緒に逃げてほしかった。疑念を葬り去ってほしかった。彼を待っているうちに警察と救急がやってきた。
もう調べは終わったんですよね?さっさとあいつを捕まえてほしいわ。