一方的な別れ話
本編です。ひょう。
「あの、彼と別れてほしいんです」
ああうんうんわかったよユングのやつに女装させて相手させるから休んでいくといいよ――とか何とかいう答えが浮かんで消えた。うん?なんか違うもんが聞こえたぞ。
「へ?」
「彼と、別れてほしいんです」
アイエエエ?ネエサン?ネエサンナンテ?カレトワカレテホシインデスッテドーユーミーン?聞こえたコルヌタ語をコルヌタ語として理解するのに数秒を要した。
彼と別れてほしいんです。つまり性愛関係にある特定の男性と離別すればいいのか。
「ほうほう」
要旨はつかめたので頷く。うんうん愛別離苦愛別離苦。
こんなことに何の意味があるんだか知らないけど依頼人のことをあれこれ深く詮索するのはよくない。深くは聞かない。それはいいけどこんな依頼聞いたこともないぞ。おいくら請求したらいいんだ?自問自答する。
わかんね。そうだ、住所と連絡先と名前と経歴を抑えておいて後でカミュさんに聞こう。それから請求すればいいや。結果的に全然違うものを請求する羽目になるのだが、イルマは暢気にそう思った。ここでもう一度言葉を反芻する。
おっとっと、大事なことを忘れていたようだ。
「そんで、彼って誰かな?」
「……?」
驚いている。そりゃあそうだ。おねいさんの中ではもう依頼内容は通じたつもりだろうから。でも私は彼って言われても誰かわからないんだよね。
「私は誰と付き合って別れたらいいのかな?」
「だ、だから彼と……」
ひょっとして名前からわからないパターンか?だとしたら別で調査がいるんだけど。イルマは席をそっと立った。冷蔵庫に貼りつけてあるメモ用紙を取りに行くのである。
「じゃあ特徴とかわかる?背格好とか、年齢とか。……ちょっとユングどきな」
なぜか冷蔵庫の前で体育座りをしている助手をつま先で小突いて追い払う。そんなところに座られるとちょっと手が届かない。
質素倹約を座右の銘とするイルマの場合、メモに使うのはチラシの裏だ。メモ用にわざわざ紙を買うほど金持ちでも賑わってもいない。
新聞の折り込みとかポストに入っているダイレクトメールとか、そういうものの裏が白紙もしくはうすいピンクや黄色でビニールのついてないやつ。四つから八つくらいに裁断して手のひらサイズに揃えて裏に磁石の付いた目玉クリップで留めて冷蔵庫にくっつけておく。
今日の買い物なんかを書きつけるのにも便利である。
「住所でもいいぜ。まあ、何というか、個人が特定もしくは絞り込める情報だね。最悪、写真を撮ってきて見てもらうことになるかもしれないけど、私は盗撮に気づかれるようなヘマはしないから安心したまえ」
紙とボールペンを持って戻ろうとしたとき、おねいさんが立ち上がった気配がした。なに?どしたの?一二歩戻る。
「とぼけるのもいい加減にして!」
さて、読者の皆さんにはもうそろそろ、このおねいさんの正体について、例えば「たぶんユングの彼女なんだろうなあ」とか「イルマとユングが付き合ってると思ってるんだろうなあ」とか予想がついてきたはずだろうと思う。
大当たりだ。
確かに彼女は――彼女はザビーナというのだが――隣町の私立小学校で教師をやっている、ユングの恋人である。独身32歳。出逢った頃の甘い思い出なんかは割愛するとして、昨今はそれもご無沙汰気味だ。
魔導師コンビは二つ向こうのガヌア県にいたし、そのちょっと前も悪霊やら盲目の画家の警備やらで中々会えなかった。
ザビーナの誤解に関しては、さもありなん、という程度のものだ。
少し考えていただきたい。彼氏が女の子と一つ屋根の下で二人っきりで共同生活を営んでいる。妹とかではない。親類ですらない。なお、二人は付き合ってもう三か月にはなる模様である。
出会いは六月、運転免許の更新をしに行った時。で、いまだにこっちの同居は解消されず、同棲も始まらず。誤解だって生まれようというものである。
しかも、その彼は同居する少女に食事を作らせて持ち出してもいる。手料理というやつだ。愛妻弁当と言い換えてもいい。本人はバレていないと思っているようだがそんなはずはない。
――ごめん、会えなくなった。仕事だ。明日からカッシアに行く。
――次はガヌアだ。閑古鳥だと思っていたがそうでもないらしくってな。まあ、何とか帰ってこられるようにするから。
彼はこの同居人に雇われており、急な仕事にも不満を漏らさずついていく。どうも、ザビーナよりその女を優先するようで気に入らない。
もちろんその彼、ユングや同居人の少女ことイルマにはそんなつもりはない。どころか彼女の存在自体ごく最近知ったのである。ところがザビーナはそんなことは知らないから関係ないのである。
ユングという男は年下で少し生意気で愛しい彼氏とそれだけの存在であり、イルマという女は会ったこともないが彼氏とともに暮らしている泥棒猫のような存在と、ただそれだけだ。
ユングはイルマを好いているかもしれない、が好いているだろうに変わるのも大して無理のあることではない。
実際にはユングとイルマにそのような関係性はない。彼らは互いが異性であるという認識自体が危うい。
もちろん知識として相手と自分が異なる性なのは知っている。しかしユングにとってイルマとは『先生』という中性的な生き物だ。苛められて喜んだりはしているが、女性を感じているわけではない。
イルマにとってユングとは同居している使えない助手で、一言で表すならばやはり男も女もない『きょうだい』である。ご近所の皆さんも大体そのように認識している。だからこの関係に後ろめたさはないし、誤解されるという発想がない。
とはいえ、そんな現実はザビーナには関係ない。彼女にとっては誤解を生むような状況が目の前にあるのが問題なのである。
あとは年齢からくる危機感や、仕事で会えない不満や、手料理を食べさせたいけども言い出せないもどかしさ、悪霊などという危険物にあっさり向かわせる雇い主への不信感、呼び出されたら淡々と従う恋人に感じる不甲斐なさといった大き目の要因が誤解を彼女にとっての現実、つまり思い込みに変える。
次に帰りに寄った定食屋の料理の出るのが遅いとか風が強くて傘が壊れてしまったとか、そんな細かな日々の不満が思い込みを補強していく。彼のいない夜に悶々とすればあることないこと妄想するだろう。ここへ実際会ってみたらイルマが意外にかわいい子だったりするともう止めである。
そればかりか、二人は何やら楽しそうに笑いあっていたのだ。
(昨日だって、デパートで)
――おっ。期待してますよ。
――もうっ、君もやるんだよ。
ザビーナとは正反対のタイプである。快活で屈託がなくて、男好きのしそうな――そして下品だとも思う。