彫像の白金
ひたすら回想回ですな。もう回想しかしていません。主人公が現実を見ない痛い子だった頃の話になります。
雨に濡れた電車が高架を滑ってゆく。いつもは静音性に優れているとかであまり音はしないが、今日は降り続く雨の滴に乾いた豆を大量にばらまいたような大きな音がした。
肌寒い。もう7月なのに。そっとカーテンをめくってみる。見慣れた自分の顔がくっきり映った。まだ、朝の九時である。
こんな磨りガラスみたいな風流な窓だったっけ、と思って手を触れると氷のように冷たい。ガラスの一枚向こうに滝があることに気付いた。
「嫌な雨だね、ししょー」
答えは返ってこない。10歳になったばかりのイルマはぴたりと厚手のカーテンを閉じた。ロッキングチェアの方へ振り向く。師はそこに目を閉じて座っていた。ここから見てわかるくらいには頬が赤い。
そういえば朝からぼうっとしていたっけ。近くまで歩み寄る。
浅く速い呼吸音。吐息が熱を持っている。そっと額に手を触れる。熱い。風邪だろうか、と思う。病弱らしいし、多分免疫が弱いんだろう。そのままぺしぺしと額を叩く。反応はない。
「ししょー、ししょー」
う、と小さなうめき声が聞こえた。しかし起きる様子はない。イルマは少しむっとした。
「ししょーごはん!ねえごーはーんー!朝ご飯まだ!?」
ううう。眉を寄せながら男は頭を背もたれから離した。大儀そうに細く目を開く。……閉じた。
「こら、寝るな!」
「……やめろ……叫ぶな。頭に響く……食べ物なら、冷蔵庫に昨日の残り物があるから……」
ってことはカレーか。ふむふむ、豪華豪華。納得したところでいまさら、具合の悪そうな師のことが心配になってきた。
「あのさ、ししょー寝るならベッドで寝なよ。今日寒いから冷えるよ」
「あ、ああ……」
のそのそふらふらと階段を上る後を追いかける。今の師は簡単に転げ落ちて死にそうだ。
浅く速くかすれた呼吸を一足ごとにしながら危うい足取りで寝室へと向かう。ドアをぶつかるように開けて中へ。疲れ切ったようにベッドに倒れこむ。足を動かしてぽいぽいとスリッパを脱ぎ捨てて、寒気でもしたのか震えを一つ。
仰向けになり布団を頭の上まで被る。
冷蔵庫にちゃんと昨日のカレーの残りがプラスチックの透明容器に入ってあった。ふたを開けてレンジでチンする。昨日砥いでタイマーをセットしておいたからごはんもある。後は牛乳とちゃんぽんしよう。
録画してある刑事ドラマを観賞しながら遅めの朝食を楽しんだ。
「即席でも作り置きでも必ずおいしいカレーってこの世のすべての善の結晶だよ。そう思わない?」
返事はない。そうだししょーは寝てるんだっけ。朝からぼうっとしてて、さっきとうとう寝落ちしたんだっけ?仕方のない師である。
カレー皿が空っぽになった頃にタイトルエンドが止まった画面に表示された。今回のトリックは今一だったな。犯人もわかりやす過ぎた。第一の被害者が実は生きてて犯人でしたって、使い古されてやしないか。
いや、トリックなんかイルマもとりあえず死体の鼻に造花を突きさして奥山に意味ありげなポーズで埋めるぐらいしか思いつかないけど、これも捕まった時の保険以外の何物でもないような。
録画を消去してから、ししょーがまだ見ていないことに気付いた。まあいいか。朝からぼうっとしてたわけだから。どうせ見ないだろう。
ちょっと待った、朝からだって?じゃあ薬はどうしたんだ?確か毎食前後10種類くらい二錠か三錠かずつ飲んでいたような気がするけどそうなるといつ飲んだ?
まさか飲んでないとか?いや一回や二回飲み忘れてても大したことないと思うけど彼は飲み忘れたことなんてなかった。そうするとちょっとまずいかもしれない。薬の類がまとめて入っているビニールの袋を見る。何もない。
鎮痛剤の入っていただろう処方箋があるだけだ。さては切らしたな。
病院に行って薬だけもらってくるか?こんな雨の日に?いや、そもそもイルマは彼がどこの病院に通っていたのかを知らない。近所の診療所から何から虱潰しにすればいつかわかるだろうがそれを人は最終手段と呼ばないか。
その辺の事情を知る人でもいればいいのだが……。
「いるじゃん、一人。今からでも応援頼める人が」何の迷いもなく事務所の固定電話の受話器を持ち上げて彼女はぴ、ぽ、と電話番号を入力した。
「もしもしー、私私」
詐欺かよ、とダンディなおっさんの声が笑い飛ばしてくる。カミュだ。
「えへへこの前ニュースでやってたから。そうそう、その番組。見てた?あはは」
しばし世間話に没頭する。
「しかし珍しいな、あいつじゃなくてイルマちゃんが電話かけてくるなんて」
「あー、ししょー寝てるんだよね。熱があるみたいで」
電話の向こうで誰か転んだ。
「……大丈夫?」
「それを先に言えよ……。今から車出して迎えに行くから、死者かなんか使って下まで引きずってこいよ」
はーい。返事をして電話を切る。師の部屋に行ってみた。変わらず眠っているようだ。傘立てに立てかけられた杖を持ち上げ、ガラス玉の色が赤黒く変色するのを待ってこーんと床に突き立てた。
「オニビさん、手伝って」
何度か練習した通り、亡霊のような姿の死者が現れた。どうしたの、と屈んで目を合わせてくる。うしろうしろ。
「……僕は霊柩車じゃないよ、イルマちゃん」
「まだ生きてるから。ひとのししょーを勝手に殺さないでくれるかい。これからカミュさんが迎えに来てくれるから下まで運んで」
「はい、すみません、すべて私が悪いんです、はい」そう言いながらぐったりとして死体のようなありさまの師を軽々と持ち上げた。さすが農家。
「でも、車とかなら僕も運転できるのに?こう見えて生涯ゴールド免許だよ?」
「今免許持ってないから捕まるよね」
「あ、そうか」
こうして事務所の下、一階で待っていると見慣れた黒い車がやってきた。
よく磨かれていて、ピアノのようなという表現がしっくりくるが……ああ、残念。コインでひっかかれた跡があった。こんなことをするのはどこの悪ガキだろう。酷いやつだ。
「イルマちゃん、それ寝てんのか?死んでんのか?わかんねーんだけど」
「息はあるよ。叩き起こす?」
いや、いい。そして車は生者を二人、死者を一人、中間のあたりにいる人を一人乗せて走りだした。
左右でタイヤにかき分けられて水が跳ねる。おもしろかった。カミュは運転しながらオニビと何事か話している。わき見運転は勘弁してほしいものだ。
「……あんたが、炎竜のオニビか」
「うん、僕はオニビだ。けどそんないいもんじゃないよ……せいぜい火とかげだ」
「半魔だってのは、本当か?」
「ああ。当時の判断基準が変わっていなければね」
急ブレーキにじゃっ、じゃっとフロントガラスから水が流れ落ちた。凄い。凄い。純粋に感動する。
「革命の後……どう、した?」
「どうって?」
「どこに行ったんだ?」
「この国は住みにくいから魔界に移ったよ。それだけだ」
「そっか……人間に殺されたんじゃ、ないんだな。よかった――実は、あんたのことで二つの市民団体がもめててさ。片方があんたを、建国の英雄を、最後の半魔を殺したんだって言ってる団体と、もう一つは言わずもがなか?」
けろけろけろ、蛙が鳴いている。田んぼの近くだ、と思った。横のガラス窓はレースのカーテンが引かれていて外が見えない。
「……ああ、まだあったんだ。あんなに支部を焼いてあげたのに。ならついでに教えてあげて。彼らも僕らを殺したけれど、僕一人の方が殺してるよって」
「おい、あんた自分の同族をどこに追いやる気だ?」
「いいじゃないか、僕が最後なんだろ。もし、まだいるなら……早く魔界に行った方がいいね。僕みたいな生き物は人間界では生きられないからさ」
「魔界に行ったあと、どうやって生活した?」
「答えたくないね、嫌な質問だ」珍しくぴしゃりと強い調子でオニビが言ったので、思わずそちらを振り向いた。「嫌過ぎてうっかり融かしちゃうかも」
しばらく、誰も何も言わないでざざざと雨の中車を走らせる音だけが響いた。
「……あんた以外の仲間はどこへ行った?剣士と、こ……魔導師と、魔族と、あと小さな女の子がいたはずだが」
「さあ?剣士の彼は神聖大陸出身の血統書つきサラブレッドだから国へ帰ったんじゃない?」
「そっちは俺たちも知ってるんだ。それ以上は?」
「僕にもわからない。音信不通だったからね。魔族も魔界に帰ったんじゃない。今、いないんだろ」
「あのお方は?」
「名前を伏せてても尊称で呼ばれるような知り合いは僕にはいないね」
なんかこの人たち難しい話してるな、とイルマは思った。お互いに自分のことを打ち明けないまま相手のことを聞きだそうとしている。そういう時は難しい話をしている時だ。
シートベルトを締められた血と肉の塊が隣でゆっくり呼吸をしている音に耳を澄ます。こうなってしまうと心があるのかないのかわからない。この物体がはたして人間かどうかも。
やがて車は停まった。山奥の、所々黒ずんだコンクリートの壁の病院である。病院の名は記憶にないけれど、看板の文字が一つ斜めに傾いで揺れていたのをなぜか覚えている。施設はけっこう大きい。
ぐったり眠っている魔導師を院内へ運び込んだ後、革張りのベンチで待たされた。どのくらい待たされたかはわからないけれど、気付くと居眠りしていて、ぼんやりした状態で手をひかれて病室へ連れて行かれた。
ついた先でもまたしばらくこっくりこっくり舟を漕いでいた。どうしてだろう。車に乗ったのはそう長い時間ではなかったから、まだ真昼間だし空腹でもあるのに眠りこけるなんておかしな話だ。
険しい顔をしたオニビが部屋の隅に佇んでいたのが唯一奇妙だった。
真っ白な枕とシーツに褪せた金の髪を広げて、シーツの木綿より白い顔色で師は瞑目していた。死体にも似ているが、呼吸で起きるかすかな風にさやさやと髪が揺れる。動く精緻な人形みたいだった。
ただ横たわって静かに呼吸をするだけのロボット。人に代わって力仕事をするロボットとかならまだ意味がわかるけど、こんな、何もしない機械は誰が何のためにこんなものを作ったのか。
まず彼は人工物ではないし、今は眠っているだけでやがて起き上がって呼吸以外の活動も再開するのだから考えるだけ無駄だ。そんなことはわかっている。それでも考えずにはいられなかった。これを、作った誰かがいたとしたら。
いや、理由なんかいらないのかもしれない。その誰かはただ綺麗なものを作りたかったんだ。
「なんだろ……包帯?」
師が着せられている白い服の襟もとから異なる織りの異なる生地が見えた。見慣れないけど、見慣れたものだ。けがをしたときに巻くあれ。
「怪我してるのかな。……でも、血とかは出てないし。オニビさんどう思う」
「知らないの?彼が教えない……なら、僕も教えない」
よくわからないけどそういうならそうなんだろう。細かく考えないことにした。ちょっと頑張って命令すれば教えてくれそうだけど……あれ?教えてほしくないな。何でだろう。
「オニビさんって、好きな人とかいたー?」
「うん、山ほどいた。妻がいて、高校入ったくらいから口もきいてくれなくなったけど娘が一人。……うーん、娘は僕に似て、きれいな青い瞳は三白眼できめの細かい肌が土気色でせっかくの黒髪も若白髪で結婚して子供も生まれてこれからって時に事故で……なんかごめん、ごめんなさい……変な遺伝子渡しちゃってごめんなさい」
しばらく病室には単調な電子音だけが響いた。ああ、謝りたい気分。ええと、とイルマが言葉に困っているのを見て取り、オニビは慌てて付け足した。
「大丈夫、孫は生きてるから!こっちはたぶん、きっと、三白眼とか土気色とか若白髪とか出てないはずだから!他にも、領民たちとか!友達とかいたし!辮髪とかガキンチョとか魔導おっさんとか……ひとり違うのがいたけど」
「えっひとり違うの!?」
ちょっと長いけど頑張って読んでください。王道ファンタジーだけど病むときはシビアに病みます。魔法関係なく病死。
病名とかはちゃんと考えていないけどね。