死地の森
ファンタジーの舞台として好んで選ばれる中世ヨーロッパの世界では、森はすぐそばにある別世界だったそうです。
……昼間でも真暗だから。
少女が初めて人を手にかけたのは7歳の時だ。
イルマは生まれつき魔力が強く、外国のレジスタンスなどには狙われていた。まだろくに魔法を知らない世間も知らない、うぶな少女を誘拐してテロルの方向性へ向けた教育をするのはさほど難しいことではない。
そんなことを知らない彼女はくだらない口げんかで安全圏である事務所、さらに結界の張られている帝都を飛び出し――誘拐された。
この頃は、まだ髪が長かったっけ。栗色の髪が腰まであった。この事件で焦げチリになったから切ったのだから当然のことながら、そんなことを思う。ただの少女以外の何者でもなかったのだ、あの時点では。
だからセスナの奥の部屋で首領と思しき男といたのだ。縛られたりはしていなかった。のちにこのときの男は組織の№2でほかに首領はいたことを知る。
しばらくしてセスナは登録機体でなかったため当局に追われた。機内が大混乱になる中、男がどこかに連絡を取ろうとしてイルマから目を離した。
無心だった。すぐ近くにあった、中身の入ったビールの瓶で彼の後頭部を思い切り殴った。瓶が割れ、男が気を失って倒れたところでまだ何も考えていなかった。ただ欠けた瓶を見つめて、その尖った部分で――頸動脈を、掻き切った。
最小限の切り口にとどめて、血が噴き出す中そっと部屋のドアを開けて血と薬莢と銃殺死体の群を逆にたどり出口にたどり着いた。後のことは覚えていない。
気付くと師の事務所のソファに寝かされていた。のちに聞くところによると彼女は空軍に保護される一歩手前でレジスタンスの銃が耳を掠め、それで気を失ったそうだ。
耳を掠めた弾は間の悪いことに動力機構を射抜き爆発を起こしたという。
「ししょー、ちょっとは心配したんじゃない?」
ホットミルクを飲みながら聞いた。ホットミルクを飲みながら、答えが返ってくる。
「馬鹿を言うな。だが、勝手に失せるなよ……うるさいのがいなくなって悠々自適に過ごしていたらお呼び出しを食らう俺の身にもなれ」
「えへへ」
ここにいろって言われた!いきなり上機嫌になったイルマを、彼は少しだけいぶかしげに見て、
「先生、ミシンの糸なんかどうするんですか?」
ユングの声が追憶を遮った。ひみつー、と笑う。
「今君が磨いてる旧式の銃よりかは役に立つと思うけどなあ。二発しか入らないライフル銃なんか、どうすんのさ」
今ユングが分解して磨いているのは博物館に飾られそうな骨董品。繊細で優美な彫刻があちこちのパーツに入った銃だ。
組み上がりを見ていないから詳しいことはわからないが銃身は30センチくらい、弾装の型から見るに作られたのは60年以上前だ。全体に鱗や翼のようなものが見えるので、組み上がればきっと大きなドラゴンが銃を覆うのだろう。
ドラゴン……どこかの貴族の紋章だったか。覚えてないけど。威力的には優秀でおそらく現代の75ミリのハンドガンと変わらないはずだが問題は弾の数。
「お守りですよう。ほら、二発どころか一発だって入ってないでしょ?」
「ふーん。ごめんね、私オカルティックなことよくわからないからさ」
死霊術師なのに!?ユングの眼鏡がちょっと傾いた。
ついでに言うとイルマは占いなどにも一切興味がない。そのままイルマはまた背を向けて、よくわからない機械や、使い道を想像したくない不思議な形の刃物をがしゃがしゃと手入れしていく。
そんな後姿を見ていたら、忘れていた後ろめたさが帰ってきた。
祖父は強力な魔物を相手に地雷の一つも仕掛けなかったというわけではない。その時々に、任意の場所に仕掛けることができたのだ。当然前もって仕掛ける必要はなかった。
杖のことも、祖父の遺品で確かだが、本当は祖父が何者かくらい知っている。持っただけで材質が分かるものか。国にデータがあるだろうとは思っていたが、やはり存在した。それだけだ。
嘘などついていないが、真実もほとんど話していない。話したところでイルマという少女は悲しみも気に病みもしないだろうことはわかった。図太い、というより、他人の拷問なら何十年でも耐えて見せるタイプの人間だ。
しかし話すべきことではない……だがともに働く仲間としてこの状況はいかがなものだろうか。いっそすべて話してしまえたらと思う。
約束は破ることになるけれど、祖父はきっと許してくれるだろう。
(いや、駄目だ)
理想は墓場まで持っていくこと。肝に銘じて、さっき言われたことを反芻する。
戦意を殺ぐ。変に優秀な者は命を殺ぐ。最悪皆殺すくらいのことは想定……わかった。まずは自分を殺そう。誇りも個人、団体にかかわらず一時的に放棄だ。
二人はその日のうちに盗賊と集落の前で戦闘に入った。
「ちょっと探索するつもりだったのに……何ていいタイミングで仕掛けてくれるんだい。死ねばいいのに」
これはやはり集落の中にネズミが入っているようだ。とすれば怪しいのは誰だろう。一番近くでタイミングを計れたのはおそらく酋長だが、
「我こそは筆頭騎士、カレーニナ!貴殿の名を、」
「名乗るかぁ!私は今猛烈に気分がささくれ立っているんだよ、このハダカデバネズミ!」
白銀の鎧を着こんだ元騎士がイライラモードのイルマの投げた結界爆弾でどこかへ吹っ飛ぶ。
ビー玉大の時間停止結界の中に火をつけたマッチと吐息を入れて目標物に近づいたところで結界を解除、炎と爆風が味わえる作りためておくタイプの兵器だ。
「ていうか元ってつけたまえ!もう騎士なんざ存在しないんだよ!」
なんか凄く大事な思いつきがあった気がするけど思い出せなかった。
「あっ、はい」
筆頭騎士、一発退場。なぜユングが返事をしたのかは永遠の謎と解釈する。林間を走り抜けながら交戦する。
そうは言ってもかわして避けて逃げているばかりなのでどちらかというと逃走だ。もちろんろくな土地カンがないものであっという間に回り込まれた。逃げる獲物ならお手の物なのだろう。
今度は誰も無駄な口を叩かず、じりじりと歩み寄ってくる。
「囲まれましたね……ここは僕のメイ……杖で」
メイスと言いかけた杖を構えるユングを片手で制し、じゃあ引き返そうか、と言い放つ。きり、と近くの糸を引いた。
「うぎゃあああああ!?」
まったく状況が理解できていない悲鳴を上げながら元騎士たちがどこかの奇跡のように二つに分かれる。
同じく状況の理解できていないユングを促して、左右に騎士がたくさんの騎士ロードを邪魔されることなく片手で糸を持ったままてくてく歩いて行く。
おお、壮観壮観。こりゃあ観光資源にもってこいだなあ。高すぎて国にも払えない莫大な維持費が払えればの話だけどな。
唖然としていた後方の騎士たちが追いすがってくる。イルマは少しもあわてず、足元の糸をぴん、と軽く蹴った。
「ぎゃあああああ!」
左右にあった騎士団の壁が中央にいる騎士たちを押しつぶす。池と呼ぶには十二分な大きさの血だまりが生まれた。まずまずの出来だ。
駄目押しに持っていた糸を放すとぎりぎりと騎士の塊が小さくなる。ちょっと素手で絞られているレモンに似ていた。
剣もそうだけど鎧はもっとも利用されやすい道具なんじゃないだろうか?
「な……何が起きてるのかわからないです、先生」
あは、と笑ってポケットから少し小さくなったミシン糸の玉を取り出す。
「私はね、あやとりが得意なんだよ。ししょーのほうがもっとうまかったけどね」
その糸は光沢のある灰色をしたどこの手芸店でも手に入るものだったが、かすかに周囲の色を映しこむ。まるで迷彩だった。走りながらあちこちにひっかけたり結んだりしていたのだろう。
「そういうことですか!今度教えてください!」
青年の目が異常にキラキラしていたので、どうしようかなー、と意地悪を言ってみる。しゅーんとユングが肩を落とした。
「起きろ年増。飯だ」
鬼、ジールの目覚めは最悪だった。
いきなり罵倒されて起きる朝を最悪の始まりと言わず何と言えばいいのだろう。目を開けたら金髪の特徴的な態度のでかい自称赤子がいた。この金ぴかは、昨日からジールの養子である。未婚なのに母親になってしまったわけだ。
「……寝かせといてくれません?」
「貴様、今日も仕事だろうが。起きろ、さもなくば両の眼をくりぬき手足を切り取って便所に放り込んで豚と呼ぶぞ。餌を用意してある、食って働け」
あらあら猟奇的な語彙の豊富なことで。ジールはやっと起き上がった。
起き上がったところで、いつもの習慣では自分が全裸で寝ていること、そして今も全裸であることに気がついた。
「な、何見てるんですかあ!?破廉恥ですよ破廉恥!」
「俺が今見ているのは惰弱な豚だが?あ、服」べしゃ、と制服が顔面に投げつけられた。ころん、と下着が飛び出して寝台の上を転がる。
「嫌なら早く起きて着替えろというのだ。俺としては未婚の母であることがすでに不安以外何物でもないがこの上職まで失うと母子で路頭に迷うことになるぞ。いいのか」
できるだけ体の前面を隠しながら足元の方に転がった下着を回収する。母子ともに路頭に迷うとは、金ぴかにしてはしおらしい物言いだ。
「本音はどうなんです?」
「貴様にはどんどん出世してもらって俺の順風満帆なキャリアライフのために各所につてを作って、老後はどこぞの施設に収容されて一切の口出しをしないけど金は出すふしぎな協力者であってほしい」
だと思ったよ。嫌な意味で期待通りだ。
「まず出ていってください。今から着替えるんです。しっし!」
「今の俺に生殖能力などは一切ないのだが従うべきか?」
「えっ」
「だから実質零歳児と言っただろう。聞いていなかったのか?上官殿が哀れだな」
ふん、と鼻を鳴らしてニーチェは寝室を出ていった。
精神面とぱっと見が出来上がっているだけで中身は本当に幼児なのだろうか。だとしたら悪いことしたかな。昨日はリビング兼ダイニングのソファで寝させたのだ。風邪とか引いたりして。
着替えて出てくると、ちゃぶ台の上にはカフェで食べるようなと言ったら語弊があるけれど、立派なフレンチトーストが皿に盛られて置いてあった。作った記憶どころか作れた記憶がないから、彼が作ったのだろうか。
イタダキマス、と小さく手を合わせてそっと口へ運ぶ。ふわりとバニラの香り。ふわふわとろとろとして何とも美味だ。
「凄い……」
「知識の通りに忠実に調理したまでだ、大したことではない」ちゅー、と小さい牛乳パックみたいなものをすすりながらニーチェは言った。「さては自炊をしていないな。冷蔵庫の中にはコンビニ弁当ばかりだったから卵と牛乳とバニラエッセンスは今朝買ってきたぞ」
どうやって?
「戸棚の中に見慣れぬ紙幣があったからそれを持って開店直後のスーパーに行った。これがレシートと釣銭だ。取っておけ」
「それは私のへそくりなんですけど!?」
「活用したではないか」
「どろぼー!おまわりさんこいつです!」
彼は特に何も食べなかった。パックの中身くらいである。人工乳的なサムシングなのだろうと理解した。けぷう、と大の男が窒息を防ぐためげっぷをする様は見ていて鳥肌ものだったが、やっぱり乳幼児なのだと思ったら落ちついた。
そんなことより、聞きたいことがある。
「あの、あなたはもしかして……もとは亡者、だったりは?」
ニーチェがほんの少し、わかるかわからないかくらい眉をピクリと動かした。
「やっぱり。だってあんまり、」
「貴様がその味噌炒めになった脳神経で何を思い何を言っているのかわからんが、余ったパンの耳で作ったラスクはあっちだ」
「ぷるなーお!」
零歳児の指さす方向にジールはダッシュした。いい感じに砂糖が焼き付いている。かりっ、さくっ。うまい。これはうまい。
あれ、何を聞こうとしたんだっけ?
「……愚かな」
後ろの方でそんな呆れた声がした。
向かいたい場所は家を出た時点で既に決まっているんでしょうか?それとも考えてから家を出るんでしょうか?
とりあえず家を出たけど、どこに行こうか決めていないなんて人はいないんだろうか。