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病み魔法使いの弟子  作者: ありんこ
招かれざる訪問者
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首切り

 お久しぶりです、過去編です。鬱な雰囲気をどこまで描けたか、それだけが心配ですね。

 実存の様子がおかしくなったのは春だった。

 それまでは比較的安定していた。中身は昔の一人目に似せた人格だ。精神は安定する。身体面もあんな感じだから何も気にしなくてよかった。

 なのに、ある日ベッドから起きられなくなった。何度も起こせば起きてくるが、ひどく億劫そうに起きる。食欲もなかった。

 でもここまでは春だから自律神経が乱れているんだろうくらいにしか思っていなかった。あと最近三十の大台に乗ったし、疲れが取れていないのだろうと。もうすぐ夏になるから、例年通りみんなで海水浴に行こうと言っていた。

 夏に入るともっと悪くなった。

 吐き気と倦怠感を訴え、異常に疲れやすい。今度はバテたかと言われたが、嘔吐を繰り返すので医者に見せた。投与された薬である程度持ち直したが、別の問題を知らされる。

――もうヤツは長くない。


「これ書いて。こっちに範式あるから」

 ある日の昼前のことだ。ラスプーチンは呼び出した実存に紙とペンを突き出した。退職願だ。相手は青ざめたまま身動きもしない。意識的に冷たく突き放した。

「ほら早く。そこで書いて」

 病気のため退職を余儀なくされるのであれば、公務員には退職金と手当がつく。病気は本人の責任ではないという考え方だ。

 しかし、実存はどちらかというと備品扱いである。それが病気になった。もたせるのにも金が要る。退職金を払うくらいならさっさと殺処分してしまいたいのが政府の考えだ。

 もちろんラスプーチンにとってそれはとても受け入れられるものではなかった。最期の数年間くらい好きに生きさせてやりたい。

 そこで退職願だ。

 一身上の都合により自ら退職するのであれば退職金はない。手当だってつかない。さらに実存は勝手に出ていったことになるからラスプーチンが滅茶苦茶怒られるだけで済む。殺処分する理由がなくなるのだ。

 用紙と上司をかわるがわる見つめて、男はどうにか口を開いた。

「だが、俺は……まだ」

「まだ何なの?もうダメじゃん。働けないじゃん。早くこれ書いてよ」

 紙を受け取り、テーブルのほうへ数歩歩いて魔導師はよろめき膝をついた。もう思うように体が動かないらしい。とても働かせられる状態ではない。

「ほらね、辞めるべきでしょ」


 上司の声を背に受けながら何も言い返せないで、テーブルの前のソファに腰を下ろした。何度見てもクソッ垂れの現実は変わらない。

 この白い紙、どう見ても退職願だ。

 受け取ったときは目の前が真っ暗になった。嫌だ。辞めたくない。最期まで働かせてくれ。でなければ殺してくれ。そう叫びたかった。

 だができない。俺は退職金にも値しなかったのだ。その事実が心に深く重く刺さっている。真面目に勤めてきたつもりだったが、評価はそうでなかった。

 だがどうしたらよかったのか?

 任された仕事は間違いなくやった。文句もたまには言ったけれど決して手を抜いたりはしなかった。

 同僚とも、メンゲレはデブだし東郷は視線が気持ち悪いし才蔵は卑屈だしでどうしても仲良くできなかったが、それを仕事には持ち込まなかった。むしろうまくやっていたと思う。

 楽な仕事ではなかったが、やりがいがあった。ブチクサ言いながら残業したり打ち上げしたり、仲間とともに過ごす時間は楽しかった。記憶は勝手にいじられるしそのうち人格もまた消えるんだろうが構わなかった。生きる意味があった。ここは自分の居場所だった。

――それなのに。

「さあ、早くしなよ」

 指示されている。されたからには、やらなくては。そうだろう?仕事なんだから。

 ペンを握る手が震える。範式通りに年月日を記入する。涙も出ない。胸の奥が激しく痛んだが、無心で退職理由を書き連ねる。

 曰く、一身上の都合であり退職金などの要求はしないと。突然のことで申し訳ないが何とか辞めさせてもらいたいと。たったそれだけのことなのに、筆は遅々として進まない。黒ボールペンの先端の直径0,5ミリほどのボールが回らない。インクの粘り気が鬱陶しい。

 ああ、病気にさえならなければ。

 なんとかかんとか退職願を提出して、鉛のように重い脚を引きずって部屋に戻った。横になりたい。ドアの前に荷物がまとめられていた。そうか、もうここは自分の部屋ではなくなったのか。

 治療のおかげで体調は割と良好だがどうも辛い。吐きそうだ。カミュ、お前まで俺を追い出すのか。迷惑なら山ほどかけたが、それでもお前とは仲が良かったはずだ。いいや、俺の気のせいだったか?

 病気になったと言ったって薬を飲んでいればまあまあ働けるのだ。見た目だってまだ髪も抜けていない。痩せていない。それなのに何もかもが変わってしまう。室内に足を踏み入れず、荷物を持って歩いていく。

 最後の食券で日替わり定食を頼む。忘れもしない、この日のメニューはタンドリーチキンだった。

 スパイシーなのにどこかまろやか、隠し味はヨーグルト。いつもと同じ、ゴマ塩のかかったご飯は硬めの炊き具合。付け合わせにサニーレタス、ポテトサラダを添えて。今日のスープはコンソメ味。黙々と口へ運ぶ。おかしいな、何の味もしない。

 昼食を終えて出ていこうとすると、出口のところには同僚たちが並んでいた。もう俺はいらんのだな。

 太陽は激しく照り付けていた。快晴だ。死ね。死んでしまえ。ラスプーチンが花束を渡してきた。寄せ書きが添えてある……今までありがとう?こちらこそだ馬鹿野郎。

 何の花だか、色もわからなかった。花束なんかいらない。公務員の職をくれ。いや、そこまで望まない。誰か、誰か一人でいいんだ。ここにいていいって言ってくれ。

 もう少しでいい。あとほんの少しの期間でいい。どうせ俺だって長くない。その間休むな、働けと命じてくれ。送り出さないで。引き留めて。喜んで戻ってくるから。これからはもっと素直に仕事をするから。もう文句言わない。誰とだって仲良くするから。

 給料だって要らないさ。タダで働いてもいい。

 送り出された魔導師はふらふらとよく見もせず辺りをうろついた。夕焼けに愕然とする。泊まるところがない。考えた末、24時間営業のネットカフェで一夜を明かすことにした。全然眠れない。

 カップルがイチャイチャするのがどこかから聞こえる。いや、隣か。いつもなら壁ドンするところだが、もうそんな気力もない。死にたい。

 電車の前へ飛び出して一時間足らずの遅延になるか。手っとり早いぞ。それも嫌だ。無職のまま死にたくない。なら企業に就職するか?おそらくそれも駄目だ。今から入れる保険と会社はまずない。

 そうだ、開業しよう。どうせ眠れないんだ、不動産を探そう。魔法使いなんだから塔がいい。どこの何てビルでもいいさ。住めば都だ。

 翌日には田舎へ来た。トトナ区のハクトウ町。同じ帝都とは思えない寂れ具合だが気に入った。ろくに使わなかった給料という貯蓄を放出して改装する。終の棲家は住み心地がいいに越したことはない。なくなった金はまた稼げばいい。

 新居に腰を落ち着けて、ひとまず敷いてみた布団に腰を下ろしたら初めて涙が出た。顔を埋めて、声を押さえて泣いた。それでいて何のために泣いているのか自分でもわからなかった。

 クビになったからか?退職金がなかったからか?それとも……もう思いつかないけど。痛い。苦しい。痛みはいい。苦しみも悪くない。寂しくないから。ただ気をそらしているだけだとしても孤独を感じなくて済む。

 次の年を越すころにはもともといたライバルたちを蹴落とし逃走させていた。ライバルというか何というか、ほとんどは魔術師に過ぎないし、魔導師がいても丁種じゃ大差ない。最初から敵ではなかった。

 途中で決闘を申し込まれて病院送りにしたこともあった。うっかり殺してしまったのは二人だけだから大目に見てもらいたい。

 つまらない生活だった。死にたい死にたいと思いつつ宣告された余命も過ぎた。何かが生きろと言っている、だって?存在Xってこないだ読んだ本に出て来たな。ああ、神でもなんでもいい、それからどうしろというんだ。何か意味があるというなら教えてくれ。

「私、おじさんの弟子になって、魔導師になるよ!」

――そうか。

 なぜか、それはぴったりと嵌まるものだった。

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