ヘイヘイ・バレテーラ
「ったく、こんなんで彼女さんとうまくやっていけてるのかい?」
ユングが齧ろうとした柿の葉寿司を落としかけて危うく箱のふたで受けた。
ぽてぽてと二回ほど倒れて、止まる。今剥がれた葉の内から覗くのを見るとどうやらサバだ。イルマもサバ。最初の一個はいつもこれだ。ん?剥がれた?ひょっとしてこいつ柿の葉ごと齧ろうとしたのか?
いや、剥くもんだとも説明しなかったが、普通それは食べるものじゃないだろう。魔界育ちの野人とはいえ、人間界に出てきてもうすぐ半年だし、明るい男女交際も経験して文明に染まってきたと思っていた。
より詳しくは彼女さんとどこかしら行って色々なものを食べただろうに、特に柿の葉寿司に至っては大体どこにでも流通している品なのに。なのにいまだに知らなかったのか。
とはいえ、最初に基本中の基本たるサバを引き当てるセンスは冴えているとしか言いようがない。
革新も未知数も伝統を知らなければ理解しようがないからだ。ひとまずは、剥いて食べるのだというところから説明してやろうか。もぐもぐ。サバおいしい。と、ここまで考えてイルマは思い至った。
あ、しまった。
「先生……何で知ってるんですかっ」周囲に気を使ってか声を潜めつつ、顔が真っ赤だ。「ぼ、僕は隠して……いつ……」
隠しているつもりだったことは驚きだが、そういえばイルマはまだ知っているとも感じ取ったとも言わなかった。しかしながらカミュに聞いたとも言い難い。
「さてね。どうだっていいじゃないかそんなこと。それより、彼女さんとはうまくやってるのかね?デートってあれだろ、一緒に遊びに行ったりご飯食べたりだろ。面白くないなって思われたりしたら振られるぜ」
ごまかすことにした。話の方向をそらす。
「余計なお世話ですぅ。ちゃんと遊びにも行ってるし、カフェでパンケーキとか一緒に食べてますよ。レストランに行ったこともあります」
ほう。イルマはムジュンを突くべくコトダマを込めた。
「その割には逢引の日、毎回私に弁当を作らせてたけどね」
「それも食べてますよ。彼女が着くまでに完食してますから気づかれてもないです」
おいしいです!なぜか胸を張っている。ムジュンじゃなかった。奴はイルマの作った弁当を食べたうえでカフェでお茶をしたりレストランで食事をとったりしていたのだ。サバの寿司を完食して葉をスーパーの袋にポイする。
凄いというか、なんというか……。
「お腹の具合が悪かったのは食べ過ぎじゃないかな?」
「うっ!?……そ、そうかもしれませんね。ちょっと苦しかったような……次からちょっと少なめでお願いします」
カモもシギもない。はっきりと食べ過ぎである。馬鹿かこいつは。馬鹿だなこいつは。知ってた。しかも次から、とはどういうことだ。まだ弁当を持っていくつもりか。やれやれ……。
「大体、逢引に弁当なんて持っていくからいけないんだよ。二人で外食楽しんできなよ。そういうもんだろ。そのほうが絶対楽しいよ」
そしてイルマも弁当を作らなくてよくなる。いえーい。ウィンウィンだ。
「だってお弁当おいしいんですもん。この前なんかレストラン行って帰ってきたら参鶏湯で後悔しましたよ。僕はね、外食なんかより先生のお料理が食べたいんです」
うぜぇ。イルマの心はその一言に尽きた。料理を褒められたような気もするが、全くうれしくない。人は褒められるとうれしいものだ。うれしくないからきっと褒められてない。
「代わりに彼女の手料理食べて来いよバカ。ちゃんと異性交遊楽しんで来い」
「嫌です。大体先生ったらさっきから楽しめ楽しめってらしくもない」
おう、らしくもないってか。そんじゃ私らしいって何だよ。てめえに何かわかんのかよ。あ?言ってみな。凄みたくなる気持ちをやっと抑えて口を開く。
「ししょーの教えなんだ。恋愛は全力で楽しめ、短い間のことだから……ってね」
「短い?」
「恋愛はね、三年が消費期限なんだって。それを過ぎたらもうきっと別のものだから、楽しむとかそういうのじゃなくなるんだって。それで、人生五十年って言うじゃない?今だと平均年齢は80とかだね。結構長いから、これと比べれば短い間だって。楽しめるうちに楽しみなさいって」
つまりもうすでにししょーへの私の気持ちは恋愛でも何でもないものに変質していることになるな、と思う。固執か、憧憬か。
それとも……欲?
「三年……」
遠い目をし出したので決まりが悪くなった。
「まっ、それを言ってたししょー自身は35で死んだけどね。とにかくだ」柿の葉を剥ぐ。ついにウナギを食べちゃうぜ。「君はこれからはちゃんと向こうで食べておいでよ、ね。楽しむんだよ」
「はい……ところで」ふいにユングの目が据わった。おろ?「先生知ってたんですよね?僕がお付き合いしてるって。なのに……あのシフト」
「何で私がわざわざそんなことまで気を回してやらなきゃいけないのさ。君が言わなかったんだろ?あ、柿の葉寿司。ガワは剥いて食べるもんだよ」
やっぱり奴は柿の葉ごと食べようとしていた。抗菌作用のある葉で巻くことで腐敗を防ぎつつ香りを楽しむ古い知恵の産物である、が柿の葉から移る香りを楽しむどころか葉ごと食べるという暴挙に出るとは、昔の人の知恵も予想しなかっただろう。
「あの、僕彼女がいるんで。小学校の先生なんですけど、その、デートとか行きたいんで忖度をお願いします」
「よろしい。可能な範囲内で善処する」
しっかり譲歩してやったのに、なぜだろう、ユングはうつろな目で「先生には血も涙もないのだろうか」とか何とかブツブツ言っている。どうしたんだろう。とりあえず、次はタイちょーだい。