ピーマンは笑わない
ピーマンを刻むのを忘れている。
我に返って見た自分はキッチンで丸椅子に腰かけて文庫本など開いていた。何を暢気に本を読んでいるか、夕飯は青椒肉絲なのに。
まな板の上には包丁とほぼ手付かずのピーマンが5から6個ずつ袋に入って転がっている。その向こう、作業台の余剰スペースには数日前用意しておいた味付け肉。
ジッパー付きの保存用ビニール袋に各種調味料と肉を入れて軽く揉み、あとは冷凍するだけのお手軽な作業だがこれが意外に旨い。あとはフライパンにピーマンごと放り込んで解凍と調理をいっぺんに済ませるだけなのだが……。
ピーマンを刻むのを忘れている。
我に返ればやっぱりさっきと同じように文庫本を開いている。袋の中の肉は融け始めている。いや、どうせ焼くんだから多少融けていたってかまわないが……今何時だ?なぜさっき気づいたはずなのに読書に戻っているんだ?
さっき、そのまた前にも似たようなことがあったような気がする。大体、この本は知っている。何度か読んだことがある。この先の展開を覚えている。だが、買ってきたのは今日のはずだ。じゃあ何で?
ピーマンを刻んでいない。
開いていた本を床に投げつけた。袋の中の肉はとっくに融けている。このままでは傷んでしまうだろう。窓の外はもう完全に暗い。人家の明かりと駅がぼんやり浮かんでいる。
「どしたの?」
上の階からイルマが顔を出した。パジャマを着ている。さっきまで寝ていたようだ。状況から考えるに夕飯を待ちくたびれて寝たのだろう。そして今物音がしたから起きてきたのだろう。
「ああ……すまない。夕飯を抜いてしまったな」
「え?」やれやれでもおなかすいたでもなく、困惑したようだった。「ししょー何言ってんの……晩御飯なら一緒に食べたじゃん」
青椒肉絲、今日のは味が薄かったねって言ってたじゃん。そう言われてみればそんな会話があったようにも思う。しかしだとしたら味付け肉とピーマンが残っていないはずだ。
もともと食べるほうだが、最近のイルマは実によく食べる。身長体重ともに順当に増加している。成長期か。
「じゃあ、あそこにある肉とピーマンは何なんだ?」
「え?そんなのないよ?」
ないのか。
ないと言われても相変わらず融けた肉とピーマンが見える。はて、これは俺がおかしいのかイルマが変な遊びを思いついたのかどっちだ。とうとう病気が脳みそに入ったか。
作業台の前に立って、まずは奥の肉と調味料の入った袋に手を触れてみた。冷たい。そして濡れている。何だあるじゃないか。病人をからかうもんじゃないと後で注意しておこう。
待てよ、じゃあピーマンは?
指先から赤い滴が、ピーマンがいっぱいで見えるはずのないまな板を点々と汚した。
いや、そもそもまな板は汚れていた。ピーマンを切った後そのまま置いていたからだ。どうやらピーマンを刻むのを忘れているんじゃなくてピーマンを刻んでそのあとまな板を洗うのを忘れているらしい。
「うわ、ししょー何してんの」すぐ後ろから弟子の声がした。「血が出てるじゃん。包丁の刃なんか握るからー」
本当だ。右手の人差し指と中指と薬指に切り傷ができていて、確かに包丁の刃を握ったようだ。血はもう赤い玉を作らずに流れ落ちている。まな板以外はもう片付いていてステンレスの天板が見える。
転がっている文化包丁には少し血がついているようだ。漬け込むのに使っていた袋はすすいだ後干すためにぶら下がっていて……。
魔導師は悲鳴を上げてうずくまった。