おかいもの
この日の賽の河原は、酷く静かだった。子供の声はどこか遠い感じがして、それはまるで空気にどろりと山芋のような粘り気があるようだった。灰色の風景はいつも通りで、男が一人黙々と石を積んでいる。
石塔はやがて大体彼と同じ背丈になった。男は数秒悩むような仕草をして、さっきの塔を打ち壊した。壊した塔には何も思わないらしくまた石を持ってきて積み上げていく。
どうしてこんなことをしているのだったか、と不意に彼は思うことがあった。
何も覚えていない。どうして河原で石を積んでは崩すのか。今何をやっているんだろうか。なぜここにいるんだろうか。
疑問は思考の体をなさず、ぼろぼろと崩れた。そうやってだんだん、どうして、の四文字さえ出てこなくなってきた。虚しさや他の感情もなかった。自分が誰かなんてもう考えなかった。
機械的に積んでは壊すのを繰り返す「彼」を、ジールは物憂げに眺めていた。
「もう、私の声も通じないんですね」
上司はしばらくの間をおいて、ああ、と答えた。
すでにあの亡者は自分も他人も一切認識しておらず、よって声が通じる通じないの話ではない。だが、それは彼女にも説明したわけで、ならばそれをわざわざ言ってもどうにもならない。
「どうした、あれに情でも移ったのか」
「まさか。……ただ、私は担当を任されたのに何をしてたんだろう、してるんだろうって。こんなのあんまりですよ」
膝を抱えて丸くなる。
「だって、あの人は自分が何をして罰を受けているのか、そもそも罰を受けているのかもわかってないんでしょ」
私のいる意味って何ですか。額を膝に付けたから声がくぐもって聞こえる。いつもなら叱り飛ばすところだが、今回は何も言えない
なぜよりによってこんなにも気概のあるが馬鹿な新人によりにもよって彼の担当をさせたのだろう。ついでに地獄を回れるからか?魂がないことに気付かなかったにしても、様子がおかしいことぐらいわかったはずなのに。
……いつだったか様子を見よう、と言ったことは棚の上にあげている。触れない。
「珍しく、物覚えがいいな」
「だって任されたんだもん、覚えなきゃいけない、もん」
生前の弟子の魔力に反応して死霊術を使ったことは報告が来ている。その弟子をずいぶんかわいがっていたことも。しかし、彼の方では愛だの情だのそういうものに動かされたわけではないだろう。
手助けのようなあの行動は、言うなれば条件反射だ。餌をやる時にはいつもベルを鳴らすようにしていた犬が、餌がなくてもベルの音だけで涎を垂らすのと同じだ。
「もう、あいつの危険はないぞ。精神崩壊が進んで今はただの石積みマシンだ。ジール、お前も飯を食いに行くなり帰るなりコミックマーケットに同人誌売りに行くなり好きにしたらどうだ」
後はただ、魂の残骸も朽ち果てて消滅するだけだった。
「嫌です……なんか一つ変なのが混じってましたけど、それがなくても私は……彼を看取る義務があると思います。担当ですから」
あまり話したことはなかったが、それどころか「私には!もう後がないんですよ!」の報告書には頭を抱えたが意外に真面目なものだ。
この亡者に関してだけは、のようだが。『あれ』が無くなればきっとやる気のない鬼になるだろう、そう思った瞬間上司の天秤が揺らぎ始めた。
――このまま放置して消滅を待つか、手を加えて消滅を止めるか?
それは別の言葉で言うなら、働かない部下を一人か、働く部下と働くかどうかわからない部下を合わせて二人か?という選択肢だった。
じっくり調べたりして時間をかけて考えたいところだがあまりかける時間がない。消滅はさほど遠い未来のことではない。
かつてこの世界は、三柱の神の手で作られた。すなわち、死後の世界を治める天帝、ヒトを見守る女神、無限の魔物を従える魔神である。
「……知ってますよ、そんなこと。でも天帝様は魔神に殺されて、それで天使も鬼も新たに作られることはなくなって、女神は気が狂ってヒトの世界を放棄してしまったんですよね」
「ああ、その通りだよジール。……それで、まだ天帝様が生きていることは知っていたか?」
「……は?」
イルマは頷いたばっかりに文房具売り場から動けないでいた。
「ねー、もう行こうよー」
「先生これすごくありません!?振っただけで芯が出るんですよ!?」
「普通に魔法使って押せばいいじゃん。魔導師なんだし」
「ははは何まともなこと言ってるんですか」
ユングが居座ってしまっているのである。もうガリベンの高校生にしか見えない。
単語帳に始まって、芯が折れないシャーペン、筆跡が筆ペンっぽくなるボールペン、そのあといくつかよく覚えてないけどとりあえず今に至る。
「あのさあ、一応君の寝具とか色々新生活に向けて揃えたいんだけど」
「えー、そんなの今あるのでいいですよう。そんなことより、これが……」
やれやれ。イルマは何も言わずに空を、天井を仰いだ。
ユング、君が今事務所で寝ているのはししょーが爽やかな朝にいきなり3リットルくらい血反吐を吐いてそのまま意識を失ったシーツとマットレスだよ。気付いてないのかな。思いっきり血の跡がついてるのにな。
あの後救急搬送とかでしばらく家に帰れなかったから布が染まっちゃってどうやっても取れなくなったのになー。ししょーフェチの私でさえ大分気になるよ。
あ、でも知らないなら気にもならないか。その辺のわけはあえて言わないことにした。知らぬが仏だ。
「じゃーさー、ワンフロア下の魔導用品店ってのに行こうよー。なんか掘り出し物とかあるかもよー……ちっ、聞いちゃいねえ」
文房具に興味のない彼女にはあまり面白くなかった。大体、このモールも広いのにどうしてたかが一店舗の前で立ち止まらねばならんのだ。
上には映画館とかもあるし、何で、もう、いっそモールなんだから大量のゾンビにでも襲われればいいのだ。
ここも火葬だから何かのウイルスが原因でもない限り物理的に無理だけど退屈すぎる。そうなったら生き残った人たちで共同生活だが、布団売り場が無事だったら高級な布団で寝られるのだろうか?
ししょーなら……シャベルを持って来いかな。ほとんどゾンビみたいなものだし。あ、そういえば私って死霊術師じゃん。ゾンビ操って襲わせればいいじゃん。楽しそう。こんな妄想でもしていないと、
「おねえちゃん、こんにちは!」
「わ!?」
びっくりして振り返った。妄想に夢中で気配に注意を払っていなかったのだ。反射的に身構えるが、ピンクのワンピースを着た幼女がいるだけだった。親などは見当たらない。
「な、何?お母さんは?……もしかして迷子?」
幼女はきょろきょろとおさげ頭を揺らして周囲を見回し、ちょっと困った顔でうん、と頷いた。プラスチックでできたピンクのハートが付いているヘアゴムだ。
ユングが眼鏡を中指で押し上げる。
「では、探してあげましょうかっ!」
「なんでそうなるっ!」
すぱーん、といい音がした。あうう。またユングが頭を抱える。
「だって幼女を助けないのはこの世で最も重い罪悪なんですよ!?探してあげないといけないじゃないですか!」
「ユングの実家の謎教義は聞いてないんだよ!ショッピングモールにはね!迷子センターっていうのがあるの!そこに届けさえすればいいの!別に私たちが探す必要はないの!どうして君はそう、面倒事を抱え込むんだい!ほっとけないとか知らんホットケーキでも焼いとけ!ああっ、眉間をかち割ってそのふざけた脳みそで朝顔育てて近所の小学生の夏休みの自由研究に使ってやろうかっ!」
がるる、と牙をむく。幼女がひとり、「……めおとまんざい?」と首をかしげている。違う。全然違う。そのことはイルマの台詞によってばっちり証明されている。
「それにね!お母さんのほうだってはぐれたのに気づいて多分もう迷子センターに行ってるんだよ!変に連れまわすと誘拐犯としてまさかのブタ箱行きだよ!」
「まじですか!?えっ!?どうしてどうして!?いいことしてるのに!」
「知らないよ!今や大人の男の人が少女漫画4冊買っただけで通報される世の中なんだよ!ロリコンに市民権がないんだよ!」
「おじいちゃん逃げて!」
というやりとりをした末に、幼女を連れて迷子センターにやってきた。係員が場内に放送を入れる。イルマは出ていこうとしたが幼女がまとわりついてくるので仕方なく母親の到着まで待つことにした。