駅前の魔法使い 2
「――何してるんですか?」
彼はいぶかしげに眉をひそめた。まずい。これはまずい。少女の脳細胞がかつてないスピードで電気信号と脳内麻薬を垂れ流す。
ここは押し切るしかない。
「あ、あはははは、最近柔軟剤変えて、ちょっと楽しくなっちゃってですね」
「そう、ですか……」
でもなんかサイズが明らかに大きかったような、と首をかしげる若者に「最近はやりのブカッとファッションです!」と必死で言い返す。
そういえばあのワンサイズ大きい服を着るファッションはもっとナウい名称だったかもしれない。興味もない服飾の話しなどするものではない。状況は極めて悪いままだ。
しかし目の前の彼にもファッションへのパッションはなかったらしく、はあ、そうですか、と頷いた。
「そうだ、そんなことより用件はなんでしょう!頑張っちゃいますよ!?」
「いいえあなたにはありません」
空気が固体になった。ジャアドウシテココニキタノ?脳の回転が少しの間止まった。
「え……じゃ、なんで……はっ」すぐそばに立てかけてある杖を手に取る。「まさか、私には用はないけど私の財産には用がある、とか!」
それもありません、と彼はため息をついた。
「僕は実存の魔導師に逢いに来たんです。魔導師の国家試験を通過するために……ので、弟子の魔術師には用はありません」
いらっしゃるでしょう、とイルマをじっと睨む。むっとしながらもしかし、虚しさのほうが勝ってイルマはうつむいた。
「……三年、遅かったですね。ししょーは死にました」
淡白な青年の顔が一気に歪んだ。
「嘘だ!先の大戦時、連合国軍をたった一人で殲滅した男だぞ!?」
「いえ、だから病気で。もともと病んでたんですけど、私が魔導師になった後、気力が尽きたみたいですぐに」
こちら病院のカルテのコピーです、と紙を突き出す。
青年は半ば奪うようにそれを取り、目を皿のように見開いて端から端まで食い入るように文字を追う。不意にその肩からがくりと力が抜けた。一瞬遅れで人体の破壊度合いを活字に変えて伝える紙がぱさりとカウンターの天板に落ちる。
「きれいな顔でしたよ。最後の言葉は『こっちを見るな、目を閉じろ』だったけど」
硬直して目も閉じることのできないイルマの目元を動くはずのなかった右手が覆って、実際死んだのはその1秒後だった。
病人どころか人間とは思えないような力が死後緩むこともなく入っていて、死体を葬るのにまず右手を切り離さなくてはならなかったという。
「私は目隠しされたから見てないけど、めちゃくちゃ血を吐いて死んだらしいですね。見るなって言われるわけです」
そういうわけで今は私がここの所長です、と改めて名刺を差し出す。
「病み魔法使いの弟子、イルマと申します!」
青年は魂の抜けたような顔を挙げ、緩慢な動作で名刺を受取り『国家認定魔導師』の文字を認めた。
「失礼しました……平の魔術師、ユングです。依頼は、短期追いこみの試験勉強です」
「はい、頑張るよ、ユングさん!……えーと、どこいったかな教科書とか……」
とてとてと書斎へ向かう少女の後姿を見送り、魔術師は天井を見上げ、たまたま見つけた染みに焦点を合わせた。
「頼むよ、ほんとに」
染みは人の顔によく似ていた。薄い目と三日月形に開いた口元が何とも気持ち悪い。目をそらしたらその先にカルテがあった。
職業、魔導師。二つ名、実存。氏名欄は――白紙。
「実存の魔導師……名を持たない男というのは、本当だったのか……」
――その出身を誰も知らず、また己自身も自分のことを何も知らない。
彼はある日、政府の施設で目覚めた。そこはいわゆる社宅なのだが、空き部屋のはずの部屋から困惑の表情で現れた。誰だと質した者に、俺はいったい誰なんだと返したという。
就職には幼すぎる10代前半と思しき少年ながら、国家魔導師の制服を着ていて一つ叩けばポケットの中には認定証が一枚、もう一つ叩けば試験の合格証明書が二枚。さらに叩いたら勲章が三つ出てきた。
そこで勤務していたれっきとした魔導師のはずなのに、誰も彼を知らず彼自身自分とそれに連なる人間をまったく知らなかった。
認定証を見ると、認定したことと採用試験の結果が「優」である以外すべての項目が白紙か、文字のような形をしたただのインクの染みのようなものだった。
合格証明書は同時に受けていたらしいものの魔術師と魔導師の両方のもの。魔術師の資格がないと魔導師になるための試験を受ける権利がないからだろう。
史上最高点で通過したことと使った魔法以外の項目以外がまた、こちらは文字で、確かに一文字一文字は読めるのに、つなげて読むことも発音することもできず、彼の名前に至っては白紙だった。
そして彼を知る者は一人もいない状況だけが残された。だからユングが知っているのはそれから後のことだけである。
――数百万の完全に武装した兵と、数十万の魔物に一人で向かい合い、殲滅した。
死者は数百万とも一千万とも言われている、というのは彼が殺して回ったのが敵軍兵士だけではないからだ。その同じ日に軍部の幹部まで血祭りに上げている上に敵味方の区別すらなかった。
世界大戦はここから尻つぼみに終了し、平和が訪れたが一番の功労者である殺戮者の真意はいまだわかっていない。
戦争を終わらせたかったのか、人を殺すのが初めてだったためにオーバーキルになってしまったのか、それとも他に理由があったのか、それを語ることはなかった。
こんな異常者を理解できる人間もおらず今も迷宮入りしている。