前を向こう
久々にシリアスな話です。
そこからややの間があって、
「先生、そんなとこでじっとしてたら危ないですよ」
「おろ?」
ぐいと手首を掴まれ、引っ張られた。浴衣に下駄で足元の踏ん張りがきかない。よろよろと引っ張られた方へ足をもつれさせ、かがり火の近くを通り過ぎる。
「おろ?じゃないですよ。あなたは頬に十字の傷のある剣士ですか」
ユングがしかめっ面をしてこっちを覗き込んでいた。白い頬に、メガネに火に照らされた踊る人の影がゆらゆら映り込んでいる。何となく、その顔に違和感がある。しばし考えて、オブラートに包んだ。
「君……いつになく『つらつきふくらか』だね……」
「何言ってるんですか僕は膨れてんですよ中身空気ですよ」
「えっ、マジで?」
ぽかんと口を開けて、確かにユングはさっき見たより幾分スリムな顔になった。わ、わからん……わかりにくい。
「ひどい」
「ご、ごめんてば。でもわかんないよそれ……」
いつもふくふくしてるし、と言いかけて飲み込む。言わない方がいいことだってある。イルマの手首を掴んだまま黒い尻尾をリボンと一緒にひらりと翻し、喧騒を離れ歩いていく。
いつもより早く不規則な歩調は浴衣や下駄のせいではない。ユングは珍しく苛立っているようだ。
「ど、どったの」
「別にどうもしません。ちょっとこちらへ、先生」
信号のない道を渡る。いつもなら閑静な住宅街なのだが、祭囃子が響いていて、静かとはいいがたい。畑の土の湿った臭いが鼻を刺す。街灯も少なく、暗い道だ。
さらに狭く人が二人やっと通れるかどうかの別れ道がぽかっと闇色の口を開けている。アスファルトの亀裂に下駄が引っかかって転びそうになった。
「こちらってどっちだよ」
「こちらはこちら。どこだっていいでしょ」
なんて言ったか、神像のある祠を通り過ぎる。粉っぽいお香。ここは休憩所として作られたのだろうか、屋根もあるし、ベンチなども置かれた空間だ。その割にここで休憩する人を見たことはない。
午前中に犬の散歩をしているおじさんおばさんくらいならたまに見るが、通過点である。そう、扉や壁などがないので通り抜けが可能なのだ。段差すらない。自転車で通れる。何なんだろうここ。
「おっと、ここですかね」
「ひゃっ」
少し引き戻されて、ベンチに座らされた。
薄緑に塗られた、スチールか何かの冷たいベンチだ。ちょっと聞いたことのない企業名がでかでかと書かれている。そこに腰を下ろして肩を丸めたような姿勢のイルマの前にユングが立って視線を合わせるようにこちらを覗き込む。
「何さ」
「先生はぼんやりし過ぎだと思います。多分追憶でもしてらっしゃるんでしょうけどね」
よくわかってるじゃあないか、ほっといてくれたまえと言おうとしたら顔面をぷにっと挟まれた。
「こら、人の話は最後まで聞く」
なんだよ、ユングのくせに!普段なら腹を立てるところなのだが、腹の方では座りなおした。大きな掌の温さが、歯切れよく言い切る言葉が、正面にある顔が師に似ていたせいだろうか。返事は?と師の声が聞こえた気がした。
「ふぁい……」
「よろしい」頬が解放された。ばつの悪そうな顔をするイルマに優しく笑いかける。
「ね、先生。死んだ家族の思い出に浸りたい気持ちはわからなくはありませんが、それだけじゃダメです。だってその人生き返ってこないでしょ」
うん、とうつむき加減に頷いた。叱られるなんて久しぶりだ。どんな顔をしていたらいいのかわからない。
「でも僕らは生きてるんです。先生だって生きてます。生きてる僕らは今日までも明日からも生きていかなくちゃいけません。だからね、死んだ彼らの思い出はうまく消化して、これから生きていく糧にしなきゃ。じゃないと、思い出で目の前が眩んで死んじゃいますよ。そんなこと、彼らが望むはずがない」
「……てるよ」
イルマの声が小さくて聞き取れなかったので、ユングは首を傾げた。少女がひゅっと音を立てて息を吸い込む。
「わかってるよそんなこと。でもししょーはそんなんじゃないんだ。家族なんてもんじゃない。あの人は私の全部だったんだ。そんな簡単に……割り切れないよ」
頬を伝う何かを手の甲で勢いよく拭ったらひりひり痛んだ。夜の空気が変に熱い。沁みる。
「いつまでたってもししょーの顔がちらついてさ。そのたびにこめかみの奥が痛くって喉の奥が詰まるんだ。なんだかよくわからないんだ……どうすればいいのか、全然わからないんだ」
微笑む口元がにじんで何重にも網膜に映る。もうこの顔にさえ面影を探している。いい加減やめようと思ったのはいつだったっけ。親戚だっていうのが、本当に似ているっていうことが言い訳になってまだ続いている。違いを探そうとじっと見る唇がふいに動いた。
「先生は悲しいんです」
イルマはまさにハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。
「悲しいの?私が?」
「はい」ユングは優しく微笑んで頷いた。見る人を安心させるような笑みだった。「だから、その悲しみとこれからゆっくり折り合いをつけていきましょう。今までと同じように、思い出して。でも先生、これで現職の魔導師ですね。一人でぼんやりしちゃいけませんよ」
「……じゃあどうしろってのさ。思い出してたらついぼんやりしちゃうよ」
「今度からは僕に話してください。僕は出会ったことのない、血のつながった彼の話を聞きたい。先生も誰かに話していることで悲しいのを和らげて、いくらか整理がつきやすくなる。ね?いいことずくめですよ?」
そうか。ギブアンドテイクか。納得した。目を赤くしたまま、にんまり笑う。
「わかった」
緊張感には欠けます。