三歩あゆまず
地獄ですよ。
「さーて、まずは地図だな。自分がどこで生まれたかわかるかなーってか」
ニヤリと笑った上官が輝く壁をきゅきゅっと指先でなぞると、そこに金色の線で簡易的な地図が現れた。現在地は星のマークだ。ニーチェがいそいそと覗き込む。
「この地図なら前にも見たぞ。確かあれは、2の1のAだ」
ひとつの部屋を指さすニーチェに、上官は首を振る。
「それが違うんだな。実はこの地図、北が下になっててな。あとお前は飛び降りたから階段数えなかっただろ。……正しくはこっち、4の7のIだ」
ニーチェはしばらく唖然として地図を見ていたが、不意に口を開いた。
「俺は……ニーチェではなく、シナイだった……?」
唐突だったが、何を言っているのか、やがて上官は追いつく。ここまでの付き合いは伊達じゃない。言っていることはわかる。わかるが、ある意味で分からない。
「え……おま……名前、そういうことだったのかよ?俺はてっきり、生前の本名かと思って」
「そんなわけないだろう」むっとしたように答える。
「孤児院の先生様がお付けになったのは麟太郎か俊彦か幸正もしくは典孝、でなけりゃ治仁。ひょっとすると佳実だったかもしれん。まあ、そっちの名前で呼ばれたことなどほとんどなかったせいで俺もよくは覚えていない。何かとにかく漢字2~3文字だ。そうでなかったら何で過去の自分を赤鬼呼ばわりせにゃならんのだ」
「あー……」
言われてみればそれもそうだ。死後の世界で、生前のことも消し飛んでいる今わざわざ名前を伏せて赤鬼と呼ぶ意味はない。個人情報を保護したところで何になるのか。もうその個人は既にない。周囲もない。
「上官殿は俺を中二病か何かと思っていたらしいな」
「そういうことじゃねーよ……なんかいきなり『俺はニーチェだ』って名乗るからつい勘違いしただけで」
「ふーん」
ニーチェは馬鹿を見る目をしていた。やめろ……ポンコツはジール一人で充分だ!上官はいそいそと歩き出す。
「ところでさ、改名するの?2の1のAじゃなくて4の7のIだったけど」
「しない……めんどくさい」
「あ、そう」
部屋番号で決めただけのことはあり、こだわりはないらしかった。そういうシンプルなところは嫌いではない。対象が自分の名前なのが上官の意識から遠いのが唯一不安になる部分だ。
さて、4の7のIへは階数をいくつか上る必要がある。空が飛べるとかなり楽だが、翼を持たぬ鬼たちはえっちらおっちら階段を上る。
そして、階段同士が隣で接するような親切なつくりにはなっていないので、地図を見つつ、次の階段へ廊下を歩くのだ。息が切れる上官の頭上を天使が悠々と横切っていく。
とうとう彼はその場に腰を下ろした。
「疲れたーっ、年かなぁ?」
「何を言う。鬼には老化がないのだろう」上官の先をてくてくと歩いていたニーチェが戻ってきた。ケロッとしている若者が羨ましい。「あなたのは年じゃなく、運動不足というべきだ」
「ほっとけよ……こちとらデスクワークが主なんだよ……」
時折は書類に土下座などアグレッシブな真似もするが、基本的にはオフィスで報告を待ったり、報告から書類を作ったりするお仕事なのだ。部下のフォローに地獄を回るのは特例中の特例である。
10月に此岸へ行くこともここ700年ない。といって、かなり高位というわけでもなくて、主要な会議には参加できない。中間管理職なのである。
「大体あなたの体は薄すぎる。少しは鍛えたらどうだ」
「むり……しんどい……」
これではらちが明かないと思ったニーチェは上官をひょいと背負った。小柄なジールですら人間と比べて重いくらいだったのに、ニーチェよりも背の高い上官の体は驚くほど軽い。余りに軽いので三歩歩くか歩かないかで足を止めた。
「なあ、上官殿」
「なに……」
「あなたの骨はひょっとして中空なのか?」
「知らん。でもそんなことねーと思いたいよ」
多分中空だろう。大天使を作ったノリで作られたらしいし。ニーチェは一人で納得して、また歩き出したが、やはり三歩歩かないうちに足を止めた。
「上官殿」
「今度は何だよ」
さっさと歩けと言わんばかりの上官に対して、ニーチェは目の前の光景を顎で指した。
「分かれ道に来たんだが、どっちへ行けばいいのかな?」
「なにっ!?引き返せ!」
あゆまなかった理由が違いましたね。




