ほほえみ
本編です。ちょ、ちょっと!勘違いしないでよね!ちゃんとセリフはあるんだから心配しないでよねっ!
朝顔に水をやっていてくれたご近所さんに頭を下げて戻ると、留守を任せたユングが冷房の風のもとぐったりしていた。
正しくは冷房の風とすぐに気づかなかった。うわ寒い!と思って見回したらユングの手元にリモコンがあった。設定温度は18度、狂気の沙汰だ。だって冷蔵庫と同じなんだ。今度は冷房病か……難儀な奴め。
冷房の設定温度を元に戻し、肉付きのよい頬をぺちぺちと、いやたぷたぷと叩いて起こす。
「冷房をこんなに利かせて何をしていたのかな、君は」
たぷたぷたぷ。
「夏バテってつまり、暑いからなるんでしょう。ですから、部屋の温度を下げてみたんですけど……そうすると今度はだるくなって」
たぷたぷたぷたぷたぷ。
「極端なんだよ。もう夏は終わるんだからおとなしくしていたまえ。また仕事が入ってきたら気も晴れると思うし」
たぷたぷたぷたぷたぷたぷたぷたぷ。
「それはいいなあ……ときに先生、いつまで僕の頬をタプタプするつもりですか?」
「おっと失礼」ちょっと名残惜しいが手を離した。「なかなかいい叩き具合だったもんだからつい。君の頬って骨が入ってえらが張ってるわけじゃないんだね、肉なんだね」
「ええ、こちらツラミになりまぁすってね」
けたけたと談笑していると、不意にユングが真顔に戻った。ん、どうしたのと聞いてみる。
「あの、お留守の間に官房長が来ました」
「ああ、悪霊退治の賞金を渡さなきゃいけないもんね。小切手置いて帰ったの?」
片頬を机の天板に押し付けたまま器用に首を横に振った。違うらしい。いなかったから小切手ごと帰ったんだろうか。フリーダムな人だからありえなくはない。
着服されて「そんなお金あったかなあ?」とか「秘書が勝手にやったことだから、僕は知らないなあ」なんて言われる前に請求しなくては。そんなことを考えていたらユングが真面目な顔のままイルマの後ろに目を向けた。
「今、そこにいます」
「は?」
後ろの壁を見る。何もいないよ?ユングの方へ振り向くと、背筋のあたりに視線を感じた。視線が痒くて振り仰いだ先の天井に、スーツ姿の男性がへばりついている。
天井にへばりつく知り合いは一人しかいない。いないが……そこから先の思考を打ち切る。
「おかえり弟子ちゃん」
噂のエメトがぬるりんと降りてきた。なぜそんなところに登ったのか、なぜ自分の存在をもっと早くにアピールしてこなかったのか、何がしたかったのか、まったくわからない。だがわざわざ考えまい。聞くまい。疲れる。むり。
「報酬くれに来たの?」
「うん」小切手をポンと渡された。いやに素直だ。ゼロの数を確認しなくては。
「ところでさあ、弟子ちゃんの助手くん。人が天井に貼りついてるってのにお茶も出してくれないんだよー。冷たいよこの子ー。ちょっと教育が必要じゃないかい?」
「普通お客さんは天井に貼りつかないからそんな対応教える必要ないんだよ」
小切手は一枚だが、札でも数えるときのように親指の先を軽く唾で湿らせる。
「……ひ、ふ、み……。うむっ。確かに頂戴したよ。ぶぶ漬け食べる?」
ぶぶ漬けとはお茶漬けのことである。もしこれを文面通りに取るのならばお茶漬けを食べるかと聞いていることになる。
しかしこの言葉をそのまま吞んではならない。
ぶぶ漬け食べますか、はコルヌタ語で言うところの「ゆっくりしていけばいいのに(そろそろ帰りませんか?)」というやつである。他の似たような意味を持つサインとして箒を逆さにして置くとか、自分たちはこれから夕食だとそれとなくアピールするとか、そういうのがある。
つまり、ぶぶ漬け食べますかと言われた客はいえ結構ですと断って速やかに帰らねばならない。生粋のコルヌタ人は直球で自分の要求を伝えたりはしないのである。お互いに察し合うのが彼らの美徳。
この風習を「古臭い」だの「わかりにくい」だのと言う者はスゴイ・シツレイと見なされ、コミュニティにおいて鼻つまみ者となる。また、この状況があまりに長く続くとムラ・ハチブという恐ろしい制裁が下されるのだ!
「おっ、お前にしては気が利くね。お腹空いててさあ。頂いていこうかなー」
そういう暗黙の了解をしれっと無視してエメトはそう言った。ひょっとして食べるって言った?食べるんですって。うーわまじかよ。イルマとユングの間に衝撃が走り抜けた。仕方ないから冷蔵庫の冷ご飯をチンしてささっとお茶漬けを用意する。
エメトは真実空腹だったらしい。これを平らげて満足そうに息をついた。おいしかったようで何より何より。
食うものも食ったしもう帰るだろう、帰るはずだ、帰れコラと思っているイルマたちの心情を全く察することなく口を開いた。
「数日前、ニュースを見たんだけどね」ああやっぱり見てたか。好き勝手言いやがってあいつら……。やりどころのない怒りに奥歯を噛みしめる。「結局彼は、どうなったのかな?」
「彼?悪霊なら彼女だよ。彼女なら消し飛んだけど、それが何か?」
そっちは聞いてないんだよねー別にどうでもいいしと国民の安全を保障する政治家にあるまじき言葉を放って、エメトは宙に目をやった。何だかいつもと比べてうつろな顔をしている。うざい。
「僕のセジャの話だよ。彼を使ったんでしょう」
「ししょーの死体なら一発撃ったらただの灰になったから捨ててきたよ。今頃土に還ってるんじゃないかな」
ふうん。嫌に素直に頷いた。変な感じだな。絶対なんか企んでるぞ。
次回、「ほほえみ」2。