食欲の秋にはまだ早い その2
本編です。食べ終わります。
かつん。変な音がした。論理的思考を心がけるいつものモードに戻って、手元を見る。……あれ、変だな。さっきまではあんなにあったご飯がない。
薄紅色は一粒もない。見えるのは茶碗の灰色な底の部分だけである。あまりの衝撃に、食べつくしてしまったらしいと理解するまで数秒かかった。
海鮮みそ汁もとい赤出汁なんかとっくのとうに飲み干した。そもそもあれはあくまで付け合わせ、メインの炊き込みご飯なくしてはありがたみも半減する。どうしたものか。いや、絶望にはまだ早い。
すぐに思い直してしゃもじを取り、小粋な感じのおひとり様用お櫃を覗き込む。ない。ないじゃんご飯粒!論理性を欠いていたあの時間を、記憶を手探りする。
確かに、そこで自分はしゃもじを手に取りお茶碗に大盛りしそれも食べつくす、のサイクルを飢えた獣のように、しかし工業的な単調さをもって繰り返していた。
諸悪の根源、私かっ。
しかしないものはないのだ。切歯扼腕悲憤慷慨、あと何か知らんけどその辺のやつ。夕食を終えるよりほかないと思った。そのときだった。
「先生、僕のでよければ分けますよ」
イルマの瞳孔がやばい薬でも服用したときのように黒々と開いた。いいの!?やったあ!口にこそ出していないが表情は間違いなくそう叫んでいる。
ユングは苦笑して、自分のお櫃から全体換算で三分の一くらいのご飯をイルマのお櫃へ移動させた。ほとんど残っている全量である。見ていると少女はそれすらあっという間に平らげてしまうようだ。面白い光景だ。
空色の瞳に楽しげに眺められ、はっとイルマは我に返った。ご飯をあらかた片づけてしまってからのことである。
「夏バテの上に栄養取らなくて大丈夫かい?」
段階をいくつか越した問いかけに、ユングは曖昧な笑みを浮かべた。それは自分でもよくわからない。
自分のことだからかもしれないが、欲しいか欲しくないかで言うと欲しくなかったのだ。いわゆる食欲がないといわれる状態なのだろうか、喉のあたりに何か詰まっているような感じがする。しかし具合が悪いだとか、バテているとか感じているわけでもない。
イルマの方ではこの曖昧な笑みから何となく話題を転換させた方が得策だと直感する。ひとまず、あと三口くらいの炊き込みご飯を胃酸の海へ漏れなくご招待して、矛先を変えた。
「君の実家ってどんなところ?」
「田んぼと畑がいっぱいあります」
問いかけから間をおかずにこにこと答える。まるで用意していたようだと少しだけ思った。しかし、きっとその用意は実家のあるオニビ領について聞かれたとき一般であって相手は考えていないのだろう。
それが証拠に、二の句を継ぐのに少し時間を要した。
「牛や豚など家畜も。あと鶏は、うちの領内にいる種族の中で一番個体数が多いんですよ。最近は温室も、たくさん」
「ということは暖かい地方ではないのかな?」
「はい。夏でも30度を超えることは、まずありません。台風も二年に一回、来るかどうかです。代わりに雪は毎年たくさん降りますよ。それこそ真綿のように……それで、道路の下に温水のパイプが通ってるんです。車が通れないから」
なるほど、夏バテの経験がなかったらしい。
「石油王っていうから南国みたいなの想像してたよ」
眉だけがきゅうと寄って困ったような顔になった。
「たぶん、石油が出たっていうのはもう少し南の方だと思います。あの辺りは、最近手に入ったからちょうど調査をしていたのではないかと。領主だった方のおじいちゃんが雪国の出身だったので、最初に分捕った北寄りの領地がそのまま首都代わりになってるんですよ。実家は中央に移動してないんです」
首都らしきものが中央に移動していない理由、わかりづらければアメリカの西海岸でも見てもらいたい。規模がかなり違うが、たぶん、それでわかる。
「ふーん」雪国か。確かに似合う。どこか垢抜けない印象のぼんぼりのような丸い頬は雪だるまに似ている。雪の降るような季節になればぼんやり赤く染まりそうだ。「スキーとか、したことあるのかい」
「ありますよ。でも、どうして?」
「一遍だけししょーに連れてってもらったのさ。ただどっちもてんでダメでねえ……きゅーとな幼女様だった私はともかく。信じられるかい、連合国軍一人で殺してまわったおっかないひとがスキー板の上で蟹股になったっきり、身動き一つとれず後ろ向きに滑ってくのさ」
ははは、とユングは笑った。今までと微妙に異なる種類の笑いである。だがその違いが何なのかつかめないまま、表情が移り変わる。
「僕は得意ですよ。9歳の時なんか一度パラレルターンをしようとしたら転んで、足首がおかしな方向に曲がりました」
「それは得意なのかい?」
骨折してるけど。聞き返してみたら口を尖らせた。
「だから、9歳の時の話だってば。今は完璧ですよパラレルターン。雪の上でだけリア充ですよ」
「あ、……察した」
スキー板を降りた瞬間『誰あの人』状態になるタイプだ。薄い顔してるから背景に紛れてしまうのだ。
「そうそう『家付き、カー付き、婆抜き』がよくって、金持ちの家の一人息子とか面倒くさそうなんだって……早く雪充からリア充になりたいです。夏充は仕方ないから諦めるけど」
確かに、婆ことオフィーリア、全然消えそうにない。まず寿命で死なない。ボケないから老人ホームに入らないし、病気もほとんどしないから入院しない。足をくじいて寝たきりになることも、というより液体だから足のくじきようがない。いつまでも君臨する。
食欲の秋には、そう、まだ早い……はずなのにねえ。