表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
病み魔法使いの弟子  作者: ありんこ
快楽の泉
269/398

えび・ふりゃー

 お久しぶりです。最近滞っておりますが文化祭さえ終わればもっとサクサクお届けできるかと思います。我々にとっては高校最後の文化祭とはいえ、どうして夕方8時まで居残る羽目になるのでしょう。

 もちろん学校を出るのが8時ですよ。もう家に帰ったら夕飯をとってシャワーを浴びて寝るより他ありません。確かみんな受験生でもあったと思うのですが、こんなことでいいのでしょうか。それとも寝てないのでしょうか。ひょっとして現実からのささやかな逃避なのでしょうか。

 ちょっとだけ愚痴ったところで本編です。

 ぬるくなった麦茶を口に含んで、もう一度アザラシに視線を戻した。なぜか、エビフライを思い出した。シルエットが似ているからだろうか。

 衣は薄く、しかし、しっかりと。エビをできるだけまっすぐな状態で揚げるのが腕の見せ所である。


「今日、エビフライなの?」

 あの日、事務所のキッチンでは油の弾ける音と、パン粉の臭いが夏の夜の蛍がごとく飛び交っていた。まな板の上には開いた大きめのエビ、その隣には衣が入ったタッパーが置いてある。

「いけないか?子供は好きだろう、えびふりゃー」

 常の彼を考えるとおかしな言動だったが、師は間違いなくそう言った。エビフライ、ではなく、えびふりゃー。

「え、えびふりゃー?」

「そう、えびふりゃー。もう一度だ、えびふりゃー!」

「え、えびふりゃあ」

「違う、こうだ。えびふりゃー!」

 両腕を差し上げて、片足立ちになる。確かあれは、荒ぶる鷹のポーズだったと思う。何やってるんだ、この人は。ええいままよと足を上げ両腕をぴんと天井に伸ばす。

「えびふりゃー!」

「そう。それでいい」

 えびふりゃー。師は赤い唇を白い頬の半ばあたりまで引き上げて、くくっと笑った。まだ食べていないのに満足そうだ。ずいぶんと、この言い方がお気に召しているらしい。

 イルマは少し背伸びをして、エビを揚げている師の手元を覗き込んだ。師が大物を引き揚げて、大きな音を立てて油が弾ける。ぱっと少女の顔を白い手が庇った。

「馬鹿か。当たると熱いぞ」

「だろうね」じゃーっと油でなく水の音がした。気泡が入って白く見える水道水の滝の途中に男の手が突っ込まれる。「え、ひょっとして今の当たったの?」

「うん。熱い……」

 かっこ悪い。イルマは自分のまなざしから人生始まって以来の冷え込みを観測した。油の飛んだ手を一通り冷やした魔導師はゆっくり鍋に向き直り、菜箸で長々と横たわるエビをつまみ上げて衣をつけ、油の中に入れた。

「あっ、馬鹿なことをするから手元が狂ってえびふりゃーが曲がってしまったではないか」

 鍋の中を見れば、確かに巨大なエビはわずかに曲がっていた。どうでもいい。曲がると言ったらもっとくるんと巻いてしまうのを想像する。このくらい構わないだろう。

「別に味は変わりゃしないだろ、いいじゃないか」

「何ということだ……これではエビフライだ……。俺も落ちたものだな」

 嘆いているようではあるが、どっちでも同じだと心の底から思った。

 細部は家庭により様々なバリエーションがあるが、コルヌタのエビフライは諸外国と比べて大きめであることが多い。していることといえばエビに衣をつけて揚げるだけのことだが、国内で手に入る貴重な『本物』食材であるためだろうか、これの調理に携わる人間のプライドにはしばしば驚かされる。

 たとえばここだと『呼び方はえびふりゃー』であり、『えびふりゃーはまっすぐ揚げる』だった。大きな生のエビを使うので、火が通りやすいように開いておく。

 幅も広くなったエビに均等に衣をつけて、そいやっさぁと油に放り込む。きつね色になったら取り出す感じで。もう一つの鍋に新聞紙を敷いたところへ置いて、余分な油を落とす。

 外気に触れ早くも冷め始めた香ばしいサクサクの衣が歯茎や舌を柔らかく刺すのを噛み破ると、よく乾いたその表面からは想像もつかないトロトロの中身が口の中に現れる。わずかに甘くぷりぷりと歯ごたえのある大きなエビは汁気が多く、まだ熱い。

 これだけでもとてもおいしく、正餐の主たるに足るのだが、さらにキュウリの浅漬けや酒粕で瓜を漬けたものなんかの入った病み魔法使い秘伝のタルタルソースをぼってりとかけていただく。

 このソースがまた、甘いやら酸っぱいやらほろ苦いやら、具だくさんで食べごたえがあるのだ。漬物によって食感が異なるのもまた飽きない所以である。

 腹に虫が湧くからよせと厳しく言われたが、これだけでも、これをご飯にかけるだけでもおいしい。実によくできている。

「ん、おいしいね」

「だろう?えびふりゃー!」

 どうやら師は荒ぶる鷹のポーズで絶叫するのにはまったらしいが、イルマは乗らなかった。何あのキメ顔。誰あの人。知らない人だね。今にしてみると、乗ってあげてもよかったかなと思わないこともない。


「先生?」

 現実からの呼び声に、彼女はこう答えた。

「えびふりゃー!」

 荒ぶる鷹のポーズだった。よくわからないが、ユングは乗っておくことにした。

「え、えびふりゃー……!」

 ただほんの少しだけ、なぜエビフライと言うのに振りがついてくるのかなと思った。

 『青春の時代』が過ぎ去った後、青春の代わりに灰色の何かが残ります。そんな人もいます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ