室内型夏涼み
地獄ソロです。ちょっと長いかな?でも次からは普通の本編です。お楽しみに。
床が冷たかった。
うつ伏した姿勢のままもももと前進する。床につけた右頬と服を隔てた胸や腹から体温を奪われていく感覚が心地いい。ぬるくなってきたらまた移動する。また……このひんやりが復活する。
「クーラーつけるんでもうやめてくださいようっ!」
養母の絶叫でニーチェは身を起こした。ジールをおちょくるのは大好きだが、別に今おちょくりたいわけではない。ないが……気が変わった。
「いいじゃないか、省エネだぞ」
「省エネするほど我が家は困窮してませんっ!起きなさい!」
クーラーから冷風が吹き出した。涼しい。しかし、彼は再び突っ伏して見せた。おちょくるモードだ。
「起きなさいったら」
「……いやっ」
「何で返答が色っぽいんですか?当てつけですか?当てつけですね?よろしい、戦争です!」
言うが早いがジールはニーチェの脇の下に手を突っ込んだ。こちょこちょとくすぐる。
地味な攻撃だが今までニーチェに試みた逆襲の中で最も効果がある。実際、今彼はきゃーきゃーと笑いとも悲鳴ともつかない声を出して転げまわっていた。
「いや、やめて」
「だからその色っぽいのをやめなさいよっ!」
「やだー」
さんざんくすぐられた末に、どうほどいたのかわからないが、ニーチェはジールの手から逃れて部屋の隅の方で丸くなり、ケタケタと笑い転げた。やはり中身は子供だ。
くうっ、かわいい!
「……せっかくひとが涼んでいたのに、何をする」
「もう通常状態に戻りましたか、そうですか」
もうちょっと愛でたかった。かわいい子は旅に出さない。むしろ愛でて愛でて愛で倒す。こいつは勝手にどこか行くけど。そして声も一気に低くなるけど。
「ちょっと愛でてただけですよ。別に、お仕置きしたわけじゃないですからね」
ニーチェの眉毛がもにょもにょと眉間に寄った。
「本音と建前が逆だ、馬鹿。この暑さでただでさえない脳みそが腐り落ちたか?」
かつては「ひどい!?」とか言って涙ぐんでいるところだが、この悪態にも慣れてきた。要約すると熱中症の心配をしてくれているのである。そうじゃないとしても、そう思い込むことにする。
「そんなに暑いならプールにでも行って来たらどうですか?ちょうど子供会のプール開放があるし、近所にスライダー付きのでっかいのがあるし」
我ながらいい案だとジールは思ったが、予想に反してニーチェは渋い顔をした。
「俺の見た目を考えろ。ロリコンの変態扱いで通報されるか職質受けて身分証を提示できなくて連行されるのが落ちだ。で、仮面に変わったら今度はコスプレイヤーだ」
「あー……」
「おとなしく、水風呂にでも浸かってくるさ……我が家のな」
それを聞いてジールは唇をゆがめた不思議な表情になった。笑っているようにも見える。
社宅の風呂は広くない。膝を抱え、んの字になって水に浸かっている無表情のニーチェを想像したのだ。面白すぎる。それは面白すぎる。折を見て風呂場へ特攻をかけねばなるまい。
足音をしのんで風呂場へ近づき、奇声とともに戸を勢い良く開けた。さぞかし驚いていることだろうとニヤニヤしながら浴槽を見るが、そこには誰もいなかった。より正しくは、浴槽には蓋がしてあって、入浴中とは見えなかった。
――いや。
ここの蓋はプラスチックの細い板をゴムでつなぎ合わせたもので、くるくると巻いて立てて収納する。つまり、柔らかい蛇腹状の構造をしているのだが、その蛇腹の、浴槽を覆う中心のあたりが不自然に持ち上がっていた。そこから何か白いものが突き出ているようにも見える。
じっと、目を凝らす。突き出ているのは白い……手首だ。手の甲に薄く緑に血管が浮いた柔らかそうな肌。繊細な印象を与える長い指は少し骨ばっている。桜貝に似た爪は人のそれよりわずかに凶悪な形状に、鋭く尖っていた。
鬼の左手が風呂蓋の隙間から突き出ていたのである。そっと手を出してみる。少し肌の色と大きさが異なるが、自分と同じ鬼の手がそっと出した手を握った。温かい気持ちになって握り返す。
「……ニーチェ!?」握った手の感触に覚えがあって、まずジールの頭に浮かんだのは『ニーチェが風呂に食われた』であった。頭の中がファンタジーにも程がある。「や、やだ嘘でしょ!?」
この期に及んで手など握っている場合ではないことに気付いた。ひとまず手を放し、ばらっと風呂蓋を開ける。
ニーチェはそこに浮かんでいた。というか、器用に下半身を折り畳んで、後頭部が水に浸かるようにしていた。藤色の虹彩が瞳孔を狭め、ゆらりと動いてこちらへ焦点を合わせる。
薄紅色の唇が軟体動物のようになまめかしく蠢いた。
「……ドッキリ、大成功」
そしてむっくり起き上がる。驚いて変な声が出た。
「ファッ!?つ、つまりどういうことですかッ!?」
「どうもこうもない。間違いなく貴様が驚かしに来るだろうと予想しただけだ。だから前もって罠を仕掛けてみた」
なるほど、行動が読まれていたのか。ふーん。ということは……ジールはしばらく何かを考えていたが、自分でも何を考えていたのか忘れた。
「あなた、体すっごい柔らかいですね!」
「へ?……あ、ああ、柔軟は得意だが」
風呂場に妙な空気が流れた。