壺
ご無沙汰してます。本編です。
杖に体重をかけていたのだ。
時間が停止する以前から、右脚にはほとんど体重がかかっていなかった。唖然とするラナの目の前で、イルマはおそらく最初から傷口の少し上あたりにぐるりと巻いてあったのだろう細い紐を引き絞り、簡単に止血した。
引っ張っているだけなので止血は完全ではなく、ぽたぽたと血が雫になる。
「あはは。面白いくらい君は予想通りに動いてくれるね」
出血のため蒼白な顔で魔導師は笑う。助手も一瞬動揺を見せたがそれだけだ。すぐ威嚇射撃に移る。しかし今はその程度でうろたえるラナではない。いつでもイルマの体に憑依できるのだ。こちらの優位は揺らがない。
というか、今乗っ取ってしまえばいいのだ。
「無駄な努力ご苦労様」
乗っ取ったはずの女の声がした。背中が見える。くるりとイルマが振り向く。よくわからないけれど失敗したようだ。
ラナは自分が二本の脚で立っていることに気付いて一歩踏み出そうとするが、動けない。両足はそろっている。両手もあるし、視界も欠けていない。いないのに、身動きができない。
イルマは引き絞るだけだった紐を固く結んだ。血が完全に止まる。そうだ、止血がしたいなら結べばよかったのだ。なぜすぐに止めなかったのだろう?
ユングには答えが分かっていた。光通信の信号だ。悟られないよう、自分の血で詠唱したのだ。
「何したの、って顔をしてるね。別に大したことじゃないよ」
つん、と何かを引っ張るしぐさを――ごく細い糸を引っ張った。後ろでラナのだった顔が半分焼けた死体が前のめりに倒れ、宙に吊り上がる。
網があったのだ。そしてそれは、最初から、少なくともイルマの脚を爆破するより前から絡みついていたのだろう。しかし、いつ?心当たりがない。糸が絡みついたら普通気づくはずだ。
「蘇生は二回目かな。ただし、今回は前もって用意したゾンビなんだけど……」
イルマはラナが憑依した死体と網の中のラナを見比べて笑った。
「こうして見るとよく似てるね。ていうか、あー、そっか。同一人物なのか」
今憑依しているゾンビは、自分の前の体だ。心の中で悲鳴を上げる。
「自覚はないかもしれないけど、実は君たち悪霊にとって『憑依』の瞬間は大きな隙なんだ。肉体を脱いで魂だけでうろちょろするんだから危険極まりないよ。ちゃんと詠唱付きで蘇生されたらゾンビにでもくっついちゃう。もちろん動けないよ?それ、私が逐一指示しないと動かないタイプのやつだからね、ふふ」
たまたま手に入った合法的な死体。これも特殊な薬品で処理してある。魔法を使わせる時が来てもいいように、ラムダ系はできるだけそのままだ。カバンに入っていた。
「後はそうだね、考えてみたんだ。時間を止めてるのに、どうして動けるのかなって。だってそれじゃ大気を構成する粒子も動かない。とすればその中を身動きできるわけがない。そうだろ?」
「え?ああ、確かに。言われてみれば」
ユングがポーンと手を打った。お前が返事するのかよとイルマは思ったが言わなかった。今の悪霊に応答ができるはずがないからだ。それに誰も何も言わないのにずっと話しているのもむなしいものである。
「きっと自分が触れているものは普通に動くってことなんだろうね。だからね、網を最初に張っておけば勝手に獲物がかかるのさ……お、あったあった。さすがに宅地を絨毯爆撃されたときはどうしようかと思ったけど、都市ガスの管が飛び出てて助かったよ」
そういえば、転んだ。
ひょっとするとあれは視界が欠けた上に糸が引っかかってバランスが崩れていたのだろうか?まさか、片目を奪うのも向こうは計算ずくの行動だったのか?
聞こうとしても口が動かない。息を吸うこともできない。そうだ死んでいるんだった。
スズメの目的はこれだった。糸を咥えて飛び回り、網を編んでいたのである。
しかしこの網の目的は、悪霊を捕えることにはない。そもそも悪霊の憑依した体を止めたところで、悪霊としては神聖護符などを使われない限りその体を捨てればいいだけなのだから足止めにすらならない。
カバンの中から、陶器の壺が出てきた。蓋は布で覆われている。ラナはそれをどこかで見たことがあるような気がした。
イルマが体をぐっと折り曲げ、壺は心なしか優しい手つきでぽつんと地面に置かれる。
土器の歴史ってワクワクしますね。古くは甕棺、近くは骨壺です。日本は高温多湿なので死体が腐敗しやすく、仏教が入ってくるとともに火葬が一般的になったとか。