豚骨ラーメンと家庭環境
地獄ソロです。しかもちょっと長め。さらには次回に続きます。
そのころ地獄では死者を裁いていたが、その途中で決定的な画が流れた。
さっき死んだ人がばっちり悪霊を見ていたのである。そして当然、見学に来ていたニーチェや養母のジール、それらを監督する上官の目にもとまることになった。
金茶の髪は二つに分けてくくり、緑の瞳が少し剣呑な色を含んでいる。起伏のない小さな肢体は長ズボンがあまり似合っていなかった。
上官の性癖によるのかもしれないが、やはり長ズボンが似合うのはもっと頭身の高いすらっとした大人の女性だ。または、背の高さは置いといてたくましい男性だ。
まだ性徴のはっきりしない、性染色体がXXかXYなだけの子供が長ズボンを履いたところで、性別がどっちかわからなくなる、つまり女性らしく男性らしいそれぞれの美が失われる以上に意味はない。少年なら半ズボンだし少女ならスカートが本人の嗜好を別にしてなんだかんだ一番似合う。
とりあえず髪は男子にしては長いので少女ということにしておく。
「何か小さいな、今回の」
「確かに。あれくらいなら……小学生か。しかし珍しくもあるまい」
だよなあ。悪霊は魔神がてきとうに選んだ人間がなるものだ。上官は頷いてニーチェを見た。もともと色の白い顔の半分、鼻から上が不自然に白い。
何かと思ったが、この前の休みに木で作った型を用いてバキューム成型、その上にポリパテとプラ板によるディテールアップとほんのりパール風な塗装を施し、着脱が容易かつ勝手に外れたりしないようにバンドとスナップボタンをつけて作ってやった面だ。
一点ものである。あの後、この面をつけると仮面の人格が表に出るよう脳を調整した。
つまり、この面をつけているということは。
「あれ?今お前、仮面のほうなの?」
「まあな。心配するな、あれはただひとが多くて疲れただけだろうから」
聞こうとしたことを先に答えてくれた。どちらも同じ一人の中にいる人格なのだから比べてはいけないのだが、やはり痒い所に手が届く要領のよさは仮面にあると思う。
それにしても、意外に仮面がよく似合っている。顔の話である。ほんのり紅の差した白い肌に塗装で陶器のような質感に仕上げた白い仮面は同じ色のようでいて異なる。
何より、目元の部分。陰になり、こちらからは目が見えないようになっている。大した理由があってしたことではないが、目元を隠すだけで誰だかわかりづらくなって、というかニーチェと別人らしくなってわかりやすく、上官は気に入っていた。
ただ、今となっては代わりに表情が読めなくなるのが不便だ。
「何だ、じろじろと見て。うっとうしい」
言われて初めて睨まれていたのに気づいた。
あまりとげとげしい態度をとらない仮面が不機嫌そうに吐き捨てる。いや、ニーチェでもこんな風には言わなかっただろう。そもそも奴はじっと見ていると照れこそするが不快感を示したことはない。
「お、お前は嫌なのかよ」
「嫌だ」きっぱりと言い切った。「そういう目はスクランブルしてやりたい」
静かな語調にもかかわらず上官の中の警戒心がスクランブルを発令した。本気で言ってないかこいつ。言ってるとしたら大丈夫かこいつ。ニーチェとは別の方向に危ういようだ。
「視線というものは多かれ少なかれ、意図を含んでいる。その意図によっては俺とてやぶさかではない、が」
仮面の下で表情は読めないが、おそらく眉間にしわを寄せているだろうと思った。
「あなたは俺を、何か仕事の成果でも眺めるような目で見るだろう」
「え?まあ、仕事の成果だしな」
主人格が哀れだな――仮面はあきれたようなため息をついた。馥郁たる芳香が吐息に混じって鼻を撫でてゆく。痒いところに手が届かないのは上官も同じだったらしい。
仮面をつけているから表情が読みづらいんだぜという言い訳は押し殺して、なんかごめん、と謝る。
「あなたは書類の山にも謝るのか?」
うん時々、と答えると仮面の口元が「病院に行け」と苦々しげに動いた。ジールも頷いている。
上官が書類に謝る光景は事務では多く見られるというわけではないが一定の期間内に必ず見られる光景である。多くはプレゼンのためなどに作成した資料が、プレゼンが通らなかったために不要になった時などに発動する。
まず、書類を机の上に、できる限り恭しく置く。そして、「このたびは……」で始まる謝罪の文句を唱える。なお毎回内容は異なる。
唱え終えると半狂乱になって泣きながら土下座し、床に額を打ち付けながら「ごめんなさい!ごめんなさいぃいいい!」と絶叫する。たまに角が折れたり欠けたりする。この間周囲の事務員は黙って耐えている。
やがてそれが終わると上官はうつろな目で書類をそっと抱き上げて、焼却炉へ向かうのだ。本人は問題にしていないようだが、異様な光景である。
ふと視線をモニターに戻したジールは思わず声を上げた。
「あれ?」
「どうしたジール。腹でも減ったか」
比較的常識的な仮面さんの中でもジールの扱いは犬猫だった。越えられない壁を感じる。
「違います、私の感情はすべて三大欲求に支配されているわけではありません」
そうか。仮面は爽やかに微笑んだ。その顔にホッとする。壁はあっても溝までは掘られていなかったようだ。
「では今あなたがほしいのは?」
「もちろん、背脂で白くどろっどろに濁った豚骨ラーメンの7,5ミリもある分厚い脂身たっぷりのチャーシューにもやし大盛りバベルのニンニクマシマシです!」
養母が見るに堪えない形相でじゅるるとよだれをすすっているが、仮面は爽やかな笑みを浮かべたままである。仮面の奥のまなざしは優しくすらあった。慈愛を含んでいる。
「そうか。喜べ、今夜はそこまでこってりには仕上げられないが、豚骨ラーメンにしてやろう」
「わーい!」
ジールは無邪気に喜んだ。いい子じゃないか仮面ちゃん。優しいじゃないか仮面ちゃん。大好きだよ仮面ちゃん!
「……あれ?」
「どうした?」
今度は仮面は混ぜっ返さなかった。ジールの知能では無限ループが起きてしまう。
今度からもっと優しく接してあげよう。手始めにピンクの髪を指先で梳いてやる。馬鹿は嫌いではない。自分の馬鹿さを自覚した馬鹿は愛でようもあるのだ。
「何か、あの子、見覚えがあるような……」
モニターには、ラナが正面から映っていた。仮面はじっとそちらに顔を向けていたが、金髪を揺らして振り向いた。
「知らんな」
「んー、でもぉ……なんかなあ……」
煮え切らない態度にジールの髪を梳いていた白魚のような指が苛立ちを表した。痛くないことはないが辛くない程度に絶妙に加減して軽く引っ張られる。
「まとまらんのなら喋るな。鼓膜の振動がもったいない」
「ひどい!?」
一応、仮面は主人格にも問い合わせたが、やはりそちらも記憶にないとのことだった。おそらく前の自分が死ぬ前の話だろうと思った。
上官に聞こうとしたが、どうやら彼はどこかへ行ったようなので、仮面はあくびを一つして再びジールを構うことに戻る。
つまり、全然覚えていなかったのである。彼はその少女に見覚えがなかった。しかもじとっとした粘着質な目つきの悪さや、ただ貧しいというのではなく、ほとんど骨と皮ばかりのような貧相な体つきのどこにもかつて慈しんだ愛弟子の面影を見ることもなかったから、一切の興味を失った。
今の彼には――ニーチェと仮面には、母と何でもない話をして、彼女を笑わせてやったり泣かせてやったりする方がずっと大事だった。
ニーチェの屈折録
ネクロフィリア→サディズム→エディプス・コンプレックス←今ここ。どんどんマイルドになっていってますね。