走る紳士
小さいころに読んだけど、面白かったのに題名や設定がよく思い出せない(当時そこまで読めてなかった)話ってありますよね。
イルマの髪が栗色なのはそんな本の影響です。
結局エメトは約束の時間を大幅に過ぎてやってきた。西には日が沈みかけている。いつもなら遅刻遅刻とはやし立てるところだが、ただならぬ様子である、そうもできない。
『ひでえありさまだな。バジリスクにフ○ックされかけてピーピー泣きながら逃げてきたってとこか?』
ロランにそんなことを言われるのも無理はない。本当にひどいのだ。
詳しくはあのオーダーメイドのスーツの両ひざが破けて裾が擦り切れ、革靴もすすけている。完璧なオールバックはばらばらに乱れていた。ワイシャツが滝のような汗で貼りついている。
倒れこむように靴を脱ぎ捨て、息を切らして事務所に上がってきて、そこで膝をついてしまった。
「ど、どしたの」
ユングが顔をしかめているのはロランの常時発動型暴言のせいか政治家のボロけた姿のせいか。
「いや……ちょ、と、走って……」
荒い息の合間から何か言おうとするようだがよく聞き取れない。まあ落ち着いて、と麦茶を出した。きっと今の彼の体内の水分は余裕で60パーセントを下回るだろう。むさぼるように飲み干す。
「あ、りがと……」
飲むだけ飲んでひっくりかえってしまった。白目をむいている。これではしばらく話も聞けそうにない。あのフィジカルお化けがここまで追いつめられるほどの運動強度って何だ?常人が過労死する現場で平然としてるおっさんだぞ?
直接の面識がないロランもこういった知識は持ち合わせているから、公の面前に出せるよう言葉から汚れという汚れを取り除いた状態でこんなことを言っていた――バジリスクの同性愛はそんなに激しいのかい?ついでに彼はこの場に女性がいるということで自粛しているのだということを明記しておく。
さてやっぱりエメトはソファに這い上がって気息奄々といった体である。精神的にもまあまあ追いつめられているようだが彼の精神は常人と違って抜け穴が多い。正直、神経に穴が開いているとしか思われない。
心も体も、客観的に、一般人と比べては追いつめられているとも言い難いのだが、ちょっと疲れている程度だが、そのちょっとがすでにパラノーマルなアクティビティなのだ。原因もおそらく、ナチュラルをスーパーしているだろう。
その原因には想像もつかないからひょっとするとほんとにバジリスクあたりにケツを狙われたのかもしれない。バジリスク×エメト?どういうジャンルそれ?とりあえず貴腐人がバジリスクを細長いイケメンに擬人化するとこまで読めた。いやもっと素材を生かせよ。そこは蛇のまま行こうぜ。
蛇のまま?何でかエメトさんが喜びそうだなあ。
「先生、勝手にウ=ス異本を錬成しないでください。戻ってきてください。次期官房長も帰ってきてますから」
「ちぇ、いいところだったのに」
受けは回復していた。攻めさん今ですこいつです。仕方ないから話だけでも聞いてやろう。
「いやバジリスクに追われてないから、僕。ちょっと内閣府からダッシュしただけだから」
「へーほんとーすごいー」
棒読みになったのは決してBLが発生してないのが悔しいからではない。内閣府、である。
確かに同じ帝都にあるが、一駅とか二駅とか向こうってわけではない。同じユカカ市でこそあるものの区が違う。それも隣の区ですらない。
言っては悪いが、ここトトナ区は圧倒的に鄙の分類である。内閣府を置いている中央区からはかなり遠い。そこから、タクシーとかならわかるが、徒歩?マラソンならまだわかるが、ダッシュ?
人間がダッシュしちゃいけない距離だと思うぞ。
「ほんとだからね。僕運転できないし、個人的な用に公費は使えない。そうなるとタクシー拾うより自分で走ったほうが速いからさ」
ふっといつだったかの流行語が口をついて出た。
「狭いコルヌタそんなに急いでどこへ行く」
新幹線が初めて走ったときか何かの流行語だったかな?あれから帝都からシャービル県までわずか三時間で行けるようになったんだっけ。
「真面目に聞いてる?」
エメトの指が五本頭皮に食い込んだ。ちょっと手、汗まみれじゃーんなどと言ういとまもない。頭蓋骨がミシミシと音を立てる。あいたたた!いつもそうだけど手加減ってものを感じない手だ。
捕まったらまず逃れられないが、虐待だーともがいてみる。
「先が思いやられるなあ」
「よ、用心棒なら見つけてきたからね!?どこぞのししょーと違ってただ暇してるんじゃないんだからね!報酬はいただくんだからね!」
訴訟も辞さない!頭をがっちり掴まれて涙目になりながら大見得を切る。それに笑みをこぼして、エメトは手を離した。何だか満足げだ。
「ねえ弟子ちゃん、もう一つ追加で依頼、受けてくれる?君にしか頼めないんだけど」
「何の?内容によるよ!」
もちろん暗殺は違うからと信用ならない断定をする。これっぽちも信じられるものか。この暗殺系政治家め、暗殺は嫌だからねあれ倫理的にも法的にもハードモードだからね。
だから違うってば、と政治家は依頼を口にした。