むかしばなし
日々を無為に過ごすのと有意義に過ごすのとは紙一重だと思います。無為は無為で贅沢だと思いますし有意義なら有意義でつまらないと思う。
別に何かを主張したいわけではありません。
カミュは、その日のことを細かくは覚えていない。いや、覚えていない。まったく覚えていない。朝、呼び出されて、それから病院で目を覚ますまで記憶が完全に抜けている。
そのころの戦争のことも、なんとなく夢の中の出来事のようで、どこの国土にもこれといった損害が出ていないせいもあってか白昼夢のようだ。
――誰かさんの魔法にかけられたようで。
記憶が抜けている間に、戦地に赴いたり上司が殺されたり半殺しの目に遭ったりしていたようだがそれも覚えていないのだ。だから、彼が知っている「彼」はわずかの間に豹変したように思えた。
彼に名はない。一切の過去もない。未来すら用意されていなかった。ただそこにたんぱく質と脂質、あと少しの無機物の塊があるだけだった。名はなくとも、実存の魔導師と呼ばれる肉の塊が。
「おーい、起きろ実存。朝だぞー」
話はまさに第三次世界戦が始まる、その年に、17年前にさかのぼる。カミュは投票権獲得したての21歳だった。実存も、同い年のはずだ。多分。実はわからないけど。
「何だ、飯か?」
むくりとシーツの山が起き上がった。起き上がってはいるが、この状態だと上半身を起こしているのか組み体操のように下半身を持ち上げているのかよくわからない。
「それもあるよ……お前、そればっかりだな」シーツを片手で引きはがしたら濃い金髪に縁取られた女のような顔が出てきた。上半身を起こしていたらしい。ぱち、と濁った藤色の瞳が瞬く。
「ほら、起きろよ。怒られるぞ」
彼はベッドから降りるとクローゼットのところまで行って制服を取りだした。パジャマを脱いで、ひとつひとつ確かめるように身につけていく。まだ眠いのだろう。
ひょろひょろ伸びた、間延びしたもやしと例えられたカミュと違って、実存は肩幅は平均的なものの、だいぶ筋肉質だった。肩パッドをつけていないときのラグビー選手みたいだとはよく言ったものである。
一つケチをつけるとしたら色白で、日に当たると剥けるタイプだったことか。逆にカミュは地黒だった。日に焼けてなくても褐色から黒褐色の肌色だった。日に焼けようものなら黒光りして白目と歯が浮いて見えた。
髪型も、この頃はカミュが長いほうで実存が短い方だった。いや、途中から実存のほうが真似をして伸ばし始めた。それで、途中で飽きて切るのが面倒くさいのかどこからか持ってきたヘアクリップで後ろで留めるようになった。
発見時を15歳として数えたから年齢は21歳ということになっていたが、本当はもう少し若かったのかもしれない。カミュのルームメイトというよりはカミュの弟分みたいな感じだった。
「……」
「もうちょっとくらいうまそうに食えよ!」
かつての王城を改造した総督府をさらに改造した軍の基地内の食堂で、無言で食事をする青年の肩をぽんと叩いた。
いつでもカミュと同じものを食べている。この日はカミュの好物のミネストローネを、また無言に無表情でいつものように濁った瞳をして食べていた。
「うまいぞ。」
「知ってるけど!今食べてるから!お前って好きなものとかないのかよ?」
20人は殺してそうな濁った眼がカミュをじっと見返した。周囲の兵や魔導師が散っていく。さすがにまだそんなに殺してないはずだ。
殺っていて5人。環境が劣悪なことには定評のある自営業でないことを考えても少ない方である。20人は、というのはどちらかというとカミュのほうが近かっただろう。
その場の言葉がそのまま人を殺す不条理の魔導師。
「……考えたことがない」実存はしばらく考えてからそう言った。
「いつか、俺の過去が露見する時のことを考えたら、今の自分を定義づけるなんて恐ろしくてできたものじゃないんだ」
「またややこしいこと考えてるな。ミネストローネじゃダメなのか」
「お前が俺なら、それでいい」
やっぱり何を考えているのかよくわからなかった。歪んだ鏡でも見ているみたいだ。
「ところで、まだあの人と会ってるのか」
「何かと優遇してくれるのでな」
この頃の実存はとある上司と仲が良かった。その名は伏せる。仲が良かったのは、上司の失踪した娘と実存が良く似ていたからだ。ことあるごとに目をかけてくれる人だった。
だが、カミュはこの上司が苦手だった。
いつでも帽子を目深に被っていて目元が暗くなってよく見えない。なのにその奥でぎらりと異様な眼光がこちらを見る。痙攣するように笑う。逆に声を荒げることはほとんどない。何を考えているのかわからない、さりとて鏡などではなく。
「……あの人はちょっと、おかしいぞ。やめとけ」
「なぜ?」
「論理的なことは何も言えないけど、その、変な感じがしないか」
「つまり直感か」
「ああ。年齢は同じでも少なくとも俺はお前より15年、人生経験があるんだ。そこから考えて、あの人はおかしい」
関わらない方がいいタイプだ。このときはそれ以上は言わなかったが、三十日戦争からずっと、実存の魔導師を見るたびに、噂を聞くごとに、彼が死んでからも、だから多分一生後悔することになる。
どうしてこのときもっとしつこく引き止めなかったのか、と。
「……頭には入れておくよ、おにーさん」
「おう……って誰がおにーさんだよ!お前は俺の弟か何かなのか!?もしかして家族なのか!?うおお、嬉しくねえ!」
カミュの反応が面白かったらしい。彼はけらけら笑いながら食器を下げに行った。人波がさあっと引いて行く。
どこかの学者がこういう現象を「モーセ現象」とご丁寧にも自分の名前を付けて発表したが当然ながら相手にされず、論文は突き返されてそれでもマスコミを通じてモーセ現象なる言葉が全世界に広がった。
用法としては、「彼はクラス内で浮いている」を「彼はモーセっている」、「彼女には男っ気がない」を訳して「対男性モーセ装甲」などと使うようだ。それもあって実存のあだ名にもモーセというのがある。
ちなみに、名付け親の学者によればこのモーセ現象を自由意思により発動できるようになれば、そして極めれば海を割ったり天候を支配したりできるようになるという。月刊アトランティスで言ってた。そのくらい魔法があればなんとかなると思うのだが。
この日もいつも通り平穏で、だから兵士詰め所でカミュは彼とサーベルを交えていた。いつもの演習である。特にハードモードでもないし、平常だ。
刃のついた本物のサーベルで切りあうのがイージーモードで平常なら……。
「ようカミュ!俺は誰だ!?」
「お前は俺だ!分かってんだろ!さっさと俺と同じ太刀筋でかかってきやがれ!」
そう言った瞬間に実存の太刀筋が変わった。濁った瞳が真っ直ぐな輝きを灯す。
彼には普通の人間ほど強固な自我がないため、そして身体能力に恵まれているためこういう暗示をかけると相手の言った人間の人格と技術を模倣することができた。
「っていうかこれって、」
「毎回必要なのかよ!?俺は単に同じくらいの実力の相手とやりたいだけだっつうの!」
なお、カミュは他の追随を許さないナマクラ剣法で有名だった。ひたすらへたくそだった。同じくらいの実力を持つ者がいなかったのはそういうわけだ。
「わかってるなら、」
「その都度改善しやがれ!お前は俺だとか言ってる方が恥ずかしいんだよ!っていうか声真似すんな気持ち悪い!」
「……何だわかってるんじゃん」
模倣は模倣なので、彼、今なら偽カミュが会ったことのない人間、話を聞いたことのない人間は模倣できない。技術も偽カミュが見たことのないもの、どう考えても無理なもの、彼自身が理解していないものは模倣できない。
この頃はあまり気にしていなかったが、今にして思えば、そして人権とかの視点で見たらけっこうギリギリである。
そして話は唐突に三十日戦争の後まで飛ぶ。
実存の魔導師はサイバハラの戦場で味方の軍隊を壊滅させたうえ上司と敵軍を殲滅し行方不明になり、戦争参加国のトップを皆殺して帰ってきた。このとき死んだ上司というのが、実存と懇意にしていたどことなくおかしい上司だった。
帰ってきた日のことは覚えている。猫のようにふらっと帰ってきたのだ。お肉が安い木曜日、買い出しを頼まれて帰って気付いたら基地の入口からちょっと入ったところに立っていた。驚くほど透明な存在感だったことを覚えている。
そこらに生えた雑草のように、電柱の上のカラスのようにいるのが限りなく当たり前。
だから守衛も彼が国際指名手配されていることをうっかり忘れて通してしまったのかもしれない。カミュもいつものように話しかけてしまったからそう思う。
男は痩せてもいなければ太ってもいなかった。目の下に隈ができていたとかそういったこともなかった。髭もちゃんと剃っていた。髪も切りそろえていて、服も新調したのだろうか、驚くほど小ざっぱりした格好だった。
ただ、あれほど濁っていた瞳が透き通っていたのが異様だった。何を話したかはよく覚えていないが、口調や仕草、表情が酷く年を取ったように思えた。別人みたいだったのはそのくらいだ。
しばらくして警備兵が集まってきて、銃口を向けられた実存はまるでそうされている理由がわからないかのように首を傾げた。
「……疲れたなぁ」
それから不意にそんなことを言って、ぱたりと昏倒してしまった。隔離されていたから聞いた話だが、三日間起きなかったらしい。その後国際指名手配犯のはずの彼は普通に部屋に戻ってきた。この日もお肉が安かった。
勝手に、カミュが買ってきた携帯小説をごろごろしながら読んでいた。
「よお」
「お前……帰ってきたのか!?裁判とかどうなったんだ!?」
「さあなあ。俺には知らされていないんだ」
A級戦犯とかそういうレベルではないはずなのだが、死刑はおろか何の刑罰も受けないまま、彼はここから10年間公務員として立派に務めあげた。後で聞いたところによれば、精神鑑定の結果、責任能力の欠如が認められたそうだ。
何者かによる洗脳を受けていたとか、なんとか。思い当たる節が上層部にもあったのだろう。免職にすらならなかったのはある意味幸運だったのか。
10年後に退職した理由はまた、別の話。
病み魔法使いの弟子、というタイトルですが今回は病み魔法使いの話でした。病み魔法使いが病む前の話、しかも第三者視点でした。何をしたいのかわからないのは「彼」も同じです。ぜひ生ぬるい心で読んでやってください。