10
レッドオーガという章タイトル、当初は「泣いたあかおに」にでもしようかと思っていましたがさすがに趣味悪すぎるのでこうしました。
塾から帰ってきた赤鬼は、途中で見知らぬ老女と行き会った。
「ああ、己かえ」
老女からは彼を見知っているらしい。最も本当に見ているかどうかはわからない。両目がてんでばらばらの方向を向いている。つーんと排泄物の匂いが鼻を刺したので鼻から息を吸わないようにする。
「大きくなったもんだえ、ほんに」
あのバカ娘が駅のロッカーに捨てて来たと言った時はどうしてくれようかと思った――祖母なのだと了解した。シワとシミに覆われ、緩んだ唇がよだれを垂れ流しているけれど、不思議に母に似たところがあるのだ。
「僕は、」
「僕は誰の子ですかと聞こうとしておるな。父親は知らん。どこの馬の骨か知らんよ、フヒヒ……ああいう娘だからのう」
先に言われてしまった。正気かどうかはともかくきわめて頭のいい人物であるらしい。まあ、父については想像通りの返答だ。
「が、己がみじめなててなし子と思うてはならんぞ、え」
ててなし子?父なし子、か。脳内で活字に変換する。臭さに目がシパシパしてきた。
「己が母はこの国の正統な王族の実の娘……王位は辞退したがの。妾が証明ぞ」
「誰、」
「己の祖父様は第一王子、フロイトじゃ」
がっ、と老女の枯れ木のような指が赤鬼の肩を掴む。爪がない。膿んで黄色みがかった肉が見えるだけだ。
「して、妾が殺した男じゃ。殺し損ねたほうは……フロストは、どうなったんかいのう?ヒヒッ、どうだってよいわ」
そんなバカげた話が、と思ったその時、かっ、と横方向から凄まじい光が浴びせられた。
老女の手が肩を離れる。赤鬼は目元をかばいながらよろめき、よろよろと数歩後ずさり、尻もちをついた。そのとき手の中に何かをぎゅっと握りこんだ。
ぱんぱん、と二発銃声がした。重いものの地面に飛び散る音も。
顔に、胸に、生温かいどろりとしたものがかかる。血の臭い。しばらくして光に目が慣れて、こわごわ目を開ける。前方に何か奇妙なぐにゃぐにゃした物体が転がっている。
「祖母様」
今度はするりと言葉が出て来た。血ではない液体が頬を伝う。
血塗れ垢塗れ汚物塗れでボロボロ涙を流し、呆然と座り込んだままだった赤鬼は武装警察官の皆さんによって家に送り届けられた――脱獄した死刑囚を追っていたとか何とか。脱獄できる老女がすごいのか老女に脱獄される牢屋がザルなのか。とにかく最後の大逆罪だった。
母がとんでもなく嫌そうな顔をしたが、赤鬼にはもう気にする余裕がなかった。衝撃は大きかった。いつかのように消えたのではなく、汚く臭く気持ち悪く目の前で人が死んだのだから当たり前だ。
制服は買い替えるから捨てるように言われた。言われなくとも、ゴミ袋に突っ込む。ずいぶん脱ぎにくかった。下着も全滅だった。頭も剃った方がいいかな、などとぼやきつつ風呂場へ入る。
温かくなるのを待って、シャワーを頭から浴びた。シャンプーで意外に落ちる落ちる。剃刀を使ったことがないからよかった。
「ん……?」
左手を握ったままであることに、今気づいた。服が脱ぎづらいわけだ。シャワーを浴びながらそっと手を開く。臭い。シャンプーの泡でちょっと擦る。マシか?
「何だこれ」
管のような構造だった。棗型の飴色のガラス質。両端は陶磁器のような白い輪がついている。さらに二つの金属の輪がガラス質の部分で交差している。じっと見て、あっと声を上げた。
少なくとも三つの素材でできているのに、つなぎ目がない。結界の魔法で空気を圧縮してレンズ代わりにし、原子の粒粒が見えるくらいまで拡大してみたが、何だかありえないことになっている。
原子自体が半分に割れて途中から別の物質になっている。あのう化学ってわかりますか?原子ってわかりますか?こんなばかげたものが作れるのは――作れるとしたら、一つだけ。
具現化だ。しかもまともに現代科学を学んだ人間にはできない。これを具現したのは300年以上前の人間か、さもなくばろくに勉強しなかった阿呆としか考えられない。
そっと手の中で転がしてみる。自分の体温でぬるくなったそれに、微妙な割れ目を見つけた。上から下までまっすぐに通っている。反対側にも同じものがあった。
バレッタなのか何なのか。いつだったか母親の化粧台の近くに落ちていたものを思い出す。しばらくいじくりまわしていたら、かちりと思ったより小さい音がして、開いた。クリップらしい。
あの老女の持ち物にしては清楚系というか大人しいというか。おとなしい顔立ちだった気はしないでもないが性格の奇抜さよ。
つるりと一筋、蝶番のあたりに挟まっていたらしい長い金髪がほどけて流れる。ああ、若いころに。だったらわかる。年月はヒトを変えるものだと本に書いていた。
癖の強い髪の毛が今は濡れて首筋に貼りついている。それをかませて、クリップを閉じた。髪の毛が重みで引っ張られる。痛いから外した。
飴色の表面に不機嫌そうな少年が映る。不機嫌?どうして?痛かったから?
どちらも違う気がした。風呂から上がった赤鬼に、母はあの老女から何か渡されていないかと聞いてきたが、首を振った。
逆らったから、ばれたら何をされるかわからない。死ぬかも――危機感が心地よかった。生きている実感を初めて得た。
やがて同じことの繰り返しの果てに、例の式典がやってきた。制服は紺色で、彼によく似合った。タイの結び方がわからなかったらどうしようかと心配していたが、大丈夫だった。っていうかゴムで首にかけるだけだった。女子高生のリボンかと。結べる人が少なすぎるのだろう。
「そういえば君にはまだ杖を渡していなかったね」
やはりこちらの顔を見ずにラスプーチンが嘆息する。見えないし触れられないが確かにある透明な壁の向こうからずいと一本、杖が差し出される。
「はい、これが今日から君の杖。名前書いといてよ、みんな宝玉の色以外は同じデザインだから」
はい。返事をしたけれど、タガヤサンの太い柄はあまりにも木目がきれいでどこへ書いたものかわからなかった。
真新しい杖。ヘッドの部分は金属の塊だ。太った三日月にもう一つ角が生えたような形。金メッキが眩しい。宝玉は赤。二つ付いている。
石突も同じような金色だった。試しに床に立ててみる。トップヘビーでちょっと安定が悪いがすぐ慣れるだろう。
少年の背丈を優に超すそれは振り回しただけで人が殺せそうだ。いや、多分殺せる。鈍器だ。しかし彼はそこに拘泥しなかった。
やっと認められる。努力を。存在を。人格を。自分を。
「君は赤だから一番右ね」
「はい」
「……んと、聞いてる?」
「はい」
「1+2は?」
「はい」
ラスプーチンがまだ何か言っているようだけどよく聞こえないから適当に相槌を打っておく。どうせまっすぐ自分の顔を見たことがないんだから気づくまい。
この章は俺TUEEEなのでご安心ください。